混沌と黎明の横顔

第03章:彷徨える羅針盤 3

 周囲に生じた急速な熱に沈み込んでいたはずの意識が一気に覚醒した。
 何かあった。と直感したが、急激な意識の解放は辺りの様子を感知することを拒否するかのように、いつもなら明確なはずの感覚を遮断している。
 ──ジャムシード? お前、いったいどうしたんだ。何があった。
 返事はなかった。が、それでも自分で補えない情報は宿主から得るしかない。
 ファレスはジャムシードの意識下へと瞬時に移動し、彼の視覚野に紛れ込んだ。ほどなく目の前で繰り広げられる景色が脳裏に浮かぶ。続いて、解放された意識が収束するにつれて宿主の聴覚とも同調することを果たした。
 視覚に飛び込んできた赤茶の瞳に憶えがある。誰だろう。燃え盛る松明より沈んだ色、そう、あれは地平線に太陽が沈んで砂漠の色に似ている。過酷な環境のその場所は、ときに壮絶なまでの美しい世界を垣間見せることがあった。
 浮かんできた記憶に、ファレスは我ながらギョッとする。穏やかならざる内心の揺れに驚いたことで、鮮やかに浮かんでいた過去の情景が吹っ飛んだ。
 ──なぜだ。どうしてこの男がジャムシードの前に現れる?
 休眠状態の間に何か良からぬ事が起こったらしい。同調しているジャムシードの神経がピリピリと張りつめ、放っておいたらそのまま突っ走りそうなほど興奮状態にあるのが手に取るように判った。
 不意にファレスはジャムシードが腕に何かを抱えていることに気づく。触覚器官に意識を伸ばせば、それは柔らかい人肌であることが判った。視覚野の調整をして確認すると、それはかつて砂漠で宿主を父と慕った童女である。
 ──また厄介事に首を突っ込んだのだか、こいつは。どうしてそう、いつもいつも騒ぎに巻き込まれる。少しは要領よくかわせば良いものを。
 思わず頭痛を覚えて頭を抱えた。もっとも、実際には頭部などないのだから感覚だけではあるが。ファレスはこみ上げてきたため息を盛大に吐き出した。
「我ら一族の娘だ。返してもらおうか、ジャムシード」
「断る。あんたにその権利があるとしても俺に従う気はない。それにジュペもガイアシュも正式な滞在許可を得てここにいる。あんたでも下手な手出しをすれば幾晩かは牢獄に繋がれることになるぞ、ジューザ」
 ファレスが視覚から確認できたことは、人混みの中で対峙する二人と、彼らを取り巻くそれぞれの連れの神妙な顔つき。場所が聖都ウクルタムだとは理解したが常にない喧噪にファレスは首を傾げ、すぐに今日が月に一度の大市日であることに思い至った。
「約定を違える気か、お前。イコン族の掟を破った者への処罰は厳格だぞ」
「俺に約定を問うのか? だったら、こうやってジュペやガイアシュを追いかけてきたそちらはどうなんだ。俺との約束を反故にする気でいるんだろうが」
 何が起こったというのだろう。ファレスには状況が飲み込めなかった。このまま傍観していてもいいのだが、何やら胸騒ぎがする。本当は厭がられるのでやりたくはないが、そっと宿主の記憶区へと潜り込んだ。
 流れ込む記憶の層から必要と思われる情報と取り出す。ジャムシードの主観で見る事態は、やはり厄介な代物であった。
「我々はお前との約束を破ってはいない。何を訳の判らないことを言ってるんだ。今ならお前に咎めはない。サッサと二人を渡してくれ」
「断る、と言ったはずだ。ジュペはもちろんガイアシュも渡さない」
「こっちには炎姫公の許可証がある! お前が邪魔しようとするなら……」
「力尽くで、か? あんたが俺に手を出した途端、お尋ね者になるぞ。俺は黒耀樹公が滞在許可を出した者を保護しているだけだからな」
「ここは王都だろうが。黒耀樹公の許可など無意味ではないか!」
 ジャムシードの熱が一段と上がった。ファレスは舌打ちしたい気分であったが、今ここで止め立てても聞き入れられないことはよく判っていた。
「その王都は黒耀樹公の治めるドロッギス地藩内にある。俺やこの二人に手を出せば、ドロッギスに正規に滞在する者に危害を加えた罪で牢に繋がれ、処罰を受けるぞ。それでも力尽くで事を成す気なら相応の覚悟をしてこいよ」
「そんな横暴なッ! こちらだって正規の手続きを……」
「やめておけ、ジューザ。ジャムシードもだ。二人とも頭を冷やせよ。お互いに立場が違えばそれぞれに正論が生じる。こうなったら水掛け論だぞ」
 ジャムシードとジューザの間に男が割り込む。誰だっただろうか。一瞬考え込んだファレスだったが、すぐに炎姫公の甥ジノンだと思い出した。彼が一緒なれば確かにイコン族の者は正規の手続きを踏んでいるのだろう。
「ジノン卿が一緒だということは俺が海都ゲランを出発した直後に出立したんでしょう? 随分と手回しがいい。初めから狙っていたんですか」
 イコン族からの申し立てを吟味もせずに許可を出したことを当てこする、宿主の反抗的な態度にファレスは再びため息をついた。頭を冷やせと言われているのに余計に熱くなってどうするつもりか。
「伯父上が何か画策しているとでも言うつもりか? 炎姫家を侮辱するような真似はやめたほうがいいぞ。如何にお前が炎姫公に気に入られていようとも、公然と反抗されて黙っているほど大公という立場は甘いものではない」
「生憎と俺は大公閣下に気に入られてなどいませんよ。炎姫家預かりの身ではあるけども、唯々諾々と大公の命に従うだけの存在ではありません。今回の通行許可証の発行こそ炎姫公にしては手緩いのでは? 目的の吟味もせずに発行し、あとは我関せず勝手にしろでは納得しかねますね」
 手負いの獣が如く噛みついてくるジャムシードに、相手の男も困り果てていた。さりとてファレスに何が出来るわけでなし、何度も制止する思念の声をかけながら成り行きを見守るしかなかった。
 常のジャムシードなら聞き分けるのに、今は逆上しているとしか思えない。
「お前の言い分を聞き入れるわけにはいかん。……ジュペ、ジャムシードやガイアシュに何を吹き込まれたのか知らないが戻ってこい。こんな不始末が知れたらハムネアも悲しむぞ。お前があるべき場所は砂漠だけだ」
 ジューザが苛立ちを募らせ、姪に向かって呼びかける。それまで大人たちのやり取りに加わらず、大人しく父と共にいた娘が顔を強張らせ、ジャムシードの首にしがみついた。その仕草が癇に障ったか、ジューザが怒声を上げる。
「何を血迷っているんだ、ジュペ! 男にそそのかされて将来を誤る気か!」
「血迷ってない。ナナイに子どもが出来るんでしょ。今さら探しにこないで!」
「何を……! ナナイに子はまだ生まれていないだろうが。今からそんな先のことを言ってなんになる。お前にそんな馬鹿げたことを吹き込んだのは誰だ」
 愕然と立ちすくむジューザの背後で、連れのイコン族の男たちが顔を見合わせた。後ろめたいのか、それとも娘の思わぬ反撃に戸惑っているのか。
「青の部族のみんな、ナナイの子が部族長になるって言ってるわ。わたしはいらない子だって! 伯父さんもそう言ったじゃない! ガイアシュを無理に連れてきたのは悪かったと思うけど、もう伯父さんの言うことは聞かないわ!」
 ボロボロと頬を伝う涙が少女の傷心をハッキリと物語った。それがジューザの動揺をいっそう誘う。しどろもどろになりながら、彼は反論した。
「お、お前をいらないなどと言ったことはない。何を言って……」
「嘘つき! 伯父さんなんて大っ嫌い! ナナイが教えてくれたわ。子どもが生まれてきたら、伯父さんはその子を跡継ぎにするつもりでいるみたいだって」
 一気にジューザの顔が青ざめた。心当たりがあったのだろう。声を失った伯父の態度に感じるものがあったらしく、ジュペはさらに言い募った。
「ナナイは自分の子どもはまじない師にするつもりなのに困ってた。ナナイの叔父さんも、ナナイの子はジューザの跡継ぎにする必要があるって言ってたもん! わたしがいらない子ならお父さんと一緒にいる。砂漠には行かない!」
 少女の中では父親と一緒にいることは決定事項らしい。彼女は砂漠に帰るとは言わなかった。砂漠には行かない、とまるで元から街に住んでいる者のような口調である。この思い切りの良さは誰に似たのか。ファレスは驚き呆れた。
「ジューザ。あんたがナナイの子を跡継ぎにするかどうかは問題じゃない。だが俺との約束を破ったあんたを俺は信用しない。イコン族の掟などと口にする前に己の態度を改めるべきじゃないのか?」
 ジャムシードの怒りがファレスのいる意識全体を包む。イコン族たちは困惑顔を隠さず、彼らを連れてきた炎姫公の甥も渋い表情を隠しもしなかった。
 辺りは人通りが絶えないというのに、広場の片隅のここは凍りついている。
「約束は……破ってはいない。お前の誤解だ、ジャムシード」
「建前の言い訳はいい。ジュペと俺の眼を見てそう言えるのか? 子どもの耳にまで届くような噂話が、果たしてどれくらいえげつない内容になってるか本当に判ってるのか? 判っていて放置したのか?」
 強張った表情のまま、ジューザは言葉もなく立ち尽くしていた。押し黙る部族長を先ほどから気遣わしげに見守っていたイコン族の男が前に進み出る。ジャムシードをチラリと見遣り、すぐに脇に立つ少年へと視線を転じた。
「ガイアシュ。ジュペを連れて戻ってこい。今ならこの事態は不問にされる」
「でも、父さん……。ジュペは砂漠へは……」
「お前はっ! 女を盗んで逃げたと不名誉な風評を立てられて平気なのか。母さんや妹、弟たちが部族の中でどんな思いで待っているか判っているのか。不問にすると言っているのだ。戻ってこい。逆らうことは許さん!」
「不問にするというのならガイアシュだけを連れていって。わたしは行かない。彼はわたしの命令に従っただけだもの。罰を与える理由などないわ」
 父子のやり取りにジュペが割って入る。ガイアシュが息を飲み、少年の父親が鋭く舌打ちした。ジューザは一瞬だけ瞼を固く閉じ、すぐに大きく目を見開くと、ジュペに向かって話し始めた。
「ジュペ。事は単純ではない。お前が部族から消えればその理由が取り沙汰される。そのとき、一緒に砂漠から抜けた者が誰なのかと騒がれるはずだ」
 少女の不機嫌な顔はまったく崩れない。何を言われても心変わりなどするものか、といった頑なな気配が漂っていた。
「連れ出したのがクィービの息子ガイアシュだと知れれば、彼は盗人呼ばわりされる。まして外地に女を残して戻ってきたなどと知れたら、ガイアシュは腰抜け扱いされて戦士としては生きられん。当然、父親のクィービやその家族への風当たりはひどくなる。その手の醜聞は部族長にも止めようがないのだぞ」
 ジュペの視線が斜め下、これまで護衛として一緒にあったガイアシュへと流れ、すぐに伯父へと戻される。今も表情は怒りを浮かべてはいたが、先ほどまでの感情に任せた荒々しい雰囲気は消えていた。
「さらに悪いことに、お前は次期族長クラングの妻ハムネアの娘だということだ。クラング自身がどう思っていようと、ハムネアの娘であるお前がここに残っている限り、彼は王国に対してお前を返すよう要求し続ける羽目になる」
 母親の名が出た途端、ジュペから表情が無くなる。強張った顔からは、自分の起こした行動の結果が何をもたらすか幼いながら理解した節が伺えた。
「ジュペ、お前は我々イコン族とジャムシードがいがみ合い続けることを望むのか。王国での父親の立場が危うくなるかもしれないのだぞ」
 少女は自分を片腕で抱きかかえたままの父親を見おろし、不安をありありと湛えた声で「お父さん?」と呼びかける。厳しい表情を浮かべていたジャムシードは、娘に呼ばれて振り返ると、柔らかな微笑みを浮かべた。
「大人の意地や見栄に子どものお前が付き合うことはないんだよ、ジュペ。砂漠に帰りたいというのなら止めはしない。だけど、今のお前がここに残りたいと思っているのならそうしたらいい。方法はいくらでもあるから」
「そんなことできるの? わたしが砂漠に戻らないとお父さんが困るって……」
「大して不都合はないよ。ただここに残るとなると、王国の風習はイコン族の習慣と随分と違うから慣れるまで大変だ。ジュペにできるかな?」
 ジャムシードの言葉はイコン族には不本意なものである。焦りと怒りが等分に混じった声が少女との会話に割り込んできた。
「ジャムシード! お前は自分が何を言っているのか判っているのか。これ以上、クラングとの間に溝が生じるような真似はよせ」
「イコン族もポラスニア王国も、俺には関係ない。俺は約束を守らない奴を信用しない。信用できない輩に娘を預ける気はない。ただそれだけだ」
 ファレスの周囲に漂うジャムシードの意識が一気に熱を下げる。瞬時に凍りつきそうな冷気に震え上がった。その激変に、ファレスはようやく悟った。
 ジャムシードは怒り狂っているわけはないのだと。
「約束、約束と! ジューザがお前に何を約束したというんだ。お前と部族長の間にちょっとした行き違いがあっただけだろうが。些細なことで意固地になるのはよせ、ジャムシード。これ以上の諍いはまっぴらだ」
「クィービ。あんたはどう思ってるんだ、自分の息子のことを?」
「なっ! 今はそんな話をしてるわけじゃ……」
「どうでもいいわけか? あんたは自分の名誉のためだけに息子が欲しいのか」
 クィービと呼ばれた男の顔が青ざめ、すぐに怒りのために真っ赤になった。
「バ、バカにするな! 跡取り息子を大切にしない父親がどこにいる!」
「跡取りじゃなかったら大切にしないような言いぐさだな。ガイアシュが思い通りにならないのがそんなに不愉快か? それに、あんたにとって跡取りではない子どもたちは手駒か? 随分な父親だな」
「貴様ッ! よくもそんな侮辱を……!」
 クィービがジャムシードに掴みかかる。抱えられたままのジュペがジャムシードの首にしがみつき、イコン族の他の仲間が止めにかかった。
「やめろ、クィービ! 王国での喧嘩は御法度だと注意されたろうが」
「でも、ジューザ! こいつが! オレの家族のことを」
「家族のことじゃないだろ。俺が批評したのはあんた自身だ、クィービ。勝手に他人の言葉をねじ曲げるな。もう一度言うぞ。あんたにとって家族は利益になるうちは手駒で、足手まといになれば切り捨てる存在なのか?」
「ふざけるな! オレがいつそんなことを言った! えぇい、手を離してくれ、ジューザ。こいつだけは許さん! よくも、よくも……!」
 今にも仲間の腕をふりほどき、殴りかかってきそうなクィービに向かって、ジャムシードはあからさまに鼻を鳴らした。大人たちに挟まれ、少年はどちらにも味方できずに狼狽し、少女は飛び交う怒声に怯えて震えている。
 ファレスはジャムシードらしくないやり方に驚き、こちらの呼びかけにも完全に閉ざされたままの彼の本心を計りあぐねて戸惑っていた。
 騒ぎに広場を行き交う人々からも注目され始めている。小競り合いなど日常茶飯事の市場であっても、殴り合いになりそうな不穏な気配は商売の邪魔になるため敬遠されるのだ。警邏が呼ばれるのも時間の問題か。
 ジャムシードが腕に抱えた娘を下ろした。父親を止めようか、侮辱した相手に父の不名誉を撤回するよう訴えるべきか、大いに迷う少年をジャムシードは手招きする。囁くような小声で早口に問いかけた。
「ガイアシュ。お前はまだジュペの護衛のつもりか?」
「そ、それはもちろん。だって、オレの仕事ですし……」
「それはお前自身が決めたからやっているのか? それとも命じられたから?」
 意味がよく判らなかったらしい。だが、ガイアシュは何度も瞬きを繰り返しながら、言われた内容を頭の中で反芻しているらしかった。
「最初は……その、命じられたから。よく判らなかったし。でも、ジュペが砂漠を出ると決めたときに、ついて行くと決めたのは自分自身です」
 そうか、と頷いたジャムシードの気配が満足げなことに、ファレスはすぐに気づいた。興奮しているときの熱とは明らかに別種の温もりが周囲を満たす。
「それじゃあ、お前はお前の良心に従ってジュペと一緒にいろ」
 ジャムシードは少女の背を押し、彼女の護衛に預けると、子どもたちを建物の脇へ遠ざけた。そして、素早く騒ぎの中心へと向き直ると、なんの迷いも見せずに怒り狂っているクィービへと歩み寄る。
「どうした、クィービ? 俺をぶん殴る力もなくなったか?」
 なおも挑発するジャムシードの態度に止めに入っている者たちは呆気にとられた。頭に血が上っている男だけがさらに暴れ、とうとう羽交い締めにしている腕から抜け出すと、目の前に立つ男に飛びかかった。
 すぐに殴り合いになると踏んでいた周囲の者たちが悲鳴のような制止の声を上げる。が、それが次の瞬間には驚きのどよめきに変化した。
 ジャムシードはクィービの拳をあっさりかわす。さらに相手の太い腕を小脇に挟むと、勢いよく身体をねじ曲げながら投げ飛ばしたのである。あっという間の早業に、周囲にいる誰ひとりとして反応できなかった。
 綺麗な軌跡を描いてクィービが石畳に叩きつけられた直後、ジャムシードが動いた。唖然としたままのジューザの目の前に立つと、相手に避ける間も与えず、その両足を払ったのである。