混沌と黎明の横顔

第03章:彷徨える羅針盤 1

 眼を閉じているというのに眩暈が収まらない。血を多く失っているのか。それとも毒にでもたったのか。酩酊したような揺れが意識を混濁させた。
 ここはどこだろう? 重たい瞼はいっこうに持ち上がらなかった。
 今まで何をしていたのだろう? 嗚呼、何も思い出せないのが歯がゆい。
 のたうつように首を振り、縫いつけられたように貼り付いた瞼を無理矢理こじ開けた。寝起きだからか、まだ眩暈が収まらないからか、いっこうに視界が定まらない。ぼんやりと網膜に映る天井は黒っぽく、今が昼夜どちらかすら判断がつきかねた。ひんやりと静まり返った空気がひとけのなさを伝える。
 曖昧な記憶をたぐり寄せ、彼は横たわったまま周囲を見回した。空虚な部屋である。薄暗がりにのっそりと立ち上がる家具類はひどく古風で、しかも異国情緒に溢れていた。見たことがないはずなのに知っている気がする。
 見覚えがあるようで、そうではない景色。奇妙な既視感に背筋が粟立った。
 何が我が身に起こったのか、まだ思い出せない。この部屋の寝具の上に横たわっている理由はなんだったろうか。思い出さねばならぬのに、すんでの所で思い出せないもどかしさに苛立ちばかりが募った。
 優美な猫足の卓はどこの国の意匠であろう。磨き抜かれたオーク材らしき木材を使用した一品は薄暗がりの中ですら、見事な光沢を放っていた。
 あのような素晴らしい品に相応しい人物を知っている。確か……はて?
 そもそも、もっとも重要なことが思い出せないことに気づいた。それこそが大事なことである。それを思いつかなかったとはなんとしたことだ。
 そう。自分は何者であるのか。名は……? 我が名は……?
 ひどく心許ない不安が頭をもたげ、彼はふらつく身体を腕で支えながら起こした。柔らかな敷布に身体が沈み込みそうである。
 身体の芯を抜かれたように頭が定まらなかった。ぐらぐらと揺れる視界は眩暈だけではなく、本当に上半身が揺れ動いているからでもある。
 どうしてしまったのだろう。我が身は病にでも罹ったのか。それとも、先ほど思いついたように毒を盛られ、知らぬ間に衰弱しているのだろうか。
 嗚呼、なぜ自らの名を思い出せぬか。それさえ判れば、何もかもが解決する。そうだとも。解決するはずだ。そんな確信めいた思いが沸き上がる。
 誰でもいい。名を教えてくれ。それで何もかも思い出せるはずなのだ。誰か。誰もいないのか。ここには、人の気配がしない。なぜ誰もいないのか。
 せめぎ合う焦りと不安を反映するかのように室内は寂々とした気配に満ちていた。まるで時間が止まったかのようである。
 彼は湧き起こる動揺に逆らえず、ふらつく身体を押してベッドから降り立った。一瞬だけ視点が高くなったが、すぐにヘナヘナと寝具の上に座り込んでしまう。足に力が入らなかった。それでも身を起こしたことで周囲をつぶさに観察できる。それが良かったのか、凍えるような不安がわずかながら薄れた。
「ここは、いったいどこなのだろう? なぜ何も思い出せぬのか?」
 そのままボゥッと虚空を見上げてしばらくの時間が過ぎ去った頃。
 我に返ったときは壁を叩く音かと思ったが、それが長い廊下をこちらに向かって歩いてくる足音だと気づくのにそれほど時間は費やさなかった。
 誰かが来る。それが何者なのかはまだ判断がつかない。規則正しい歩調は徐々に大きくなり、足音がついに部屋の前で止まった。
 固唾を飲んで見守る中、蝶番が小さく軋んで入り口にわずかな隙間を生む。足音の主が持ってきたらしき燭台の灯火が床に長い影を映し、室内の調度品に揺れる陰影を刻んだ。戸口に立った人影が明かりを掲げ、こちらを伺う。
「目を醒ましていたんですか。良かった。体の具合はどうです? あなたは十日近くも眠ったままだったんですよ。あまりに目覚めが遅いものだから我が国の薬が効かなかったのかと危ぶみましたが、取り越し苦労でしたね」
 歩み寄る人物に見覚えはなかった。もしかしたらこれをきっかけに何か思い出すかと期待したが、それはあえなく潰えたようである。
 相手は成年した男だが、口調から感じ取れる年齢から判断しても身長はやけに低く感じられた。口調も聞き馴染んだ発音ではない。
 燭台を卓の上に置き、男はすぐ目の前まで近づいてきた。沈黙を訝しんでいる様子はない。「頭痛はありますか?」と訊ねる声には、こちらの身を案じている気配がありありと浮かんでいた。
「頭痛はないのですが何も思い出せません。わたしは何者なのでしょう。あなたがご存じでは……?」
「困りましたね。私もあなたがどこのどなたか存じません。この館の裏口に寄りかかるようにして倒れていたのを担ぎ込んだだけですので」
 こちらを覗き込む男の表情は読み取りづらい。落ち着いた声はそれなりに年齢を重ねているのではないかと予想させた。
「ここはどこなのでしょう? 吾の身元を示すような品は何かありますか?」
 思い出さなければならないのに何も頭に浮かばない。そのもどかしさに頭を掻きむしりたい気分だった。しかし残ったわずかな理性がそれを無駄なことだと切り捨てる。嘆き悲しむ前にやるべきことがあるだろう、と。
「ここは聖都ウクルタムです。この名前は判りますか? そう、けっこうです。それならば、あなたはこのポラスニア王国の知識があるのでしょう。それだけでも収穫ですよ」
 男がベッドに座り込む彼の隣に腰を下ろした。特徴の薄い容姿が間近に見え、それがこの王国人のものではないことを示す。
「この館は私が借り受けたものなのです。家具ごと置いてあったので便利だったものですから。きっと以前は別の船商人が使っていたのでしょうね。ここの窓からなら河港を見ることができると思いますよ。ご覧になりますか?」
 彼は再び立ち上がろうとした。が、やはり足に力が入らず、フラフラとベッドに倒れ込む。十日近く寝込んでいたと言うのだから仕方のないことだった。
 そう判っていたところで、己を不甲斐なく思う気持ちが薄らぐわけではない。彼は唇を噛んでベッドの敷布を握りしめた。
「すみません。私としたことが。寝込んでいらした方にお薦めすることではありませんでした。横になってください。スープを持ってきますから召し上がってください。まずは力をつけてからでないと身動きするのも億劫でしょう?」
 男に手を貸してもらい、彼はベッドに横たわる。ほんの少し動いただけなのに、全身を襲う倦怠感にため息が出た。
「ここに運び込まれてきたときのあなたのお召し物は後から持ってきます。あまり役には立たないと思いますけどね。何か手がかりになる品であれば、私どものほうでとうの昔に港の番屋に届け出ていますから」
 男の言葉に予想以上に落ち込む自分がいる。何も手がかりはないのか。こんな心許ない気分のまま見知らぬ他人の世話になろうとは。
「そう気落ちすることはありません。私が思うに、頭を強く打って記憶が一時的に抜け落ちているだけでしょう。そのうち思い出しますよ」
 燭台はそのままに、男が部屋から出ていこうと背を向けた。その段になって、彼は相手の名を聞いていないことに気づいて呼び止めた。
「吾はあなたをなんとお呼びすればよろしいのでしょうか?」
 振り返った男の顔がクシャリと崩れた。細い眼がいよいよ細くなり、持ち上がった口角と垂れ下がった目尻の具合は喉を鳴らす猫のようである。
「やっと訊いてくださいましたね。いやはや良かった、良かった。私のことに関心を持つ程度には、あなたの理性は働いていると判りましたから」
 男と自分の微妙な感覚のずれを感じ、彼は戸惑いをそのまま口にした。
「吾が訊くまで待たずとも、あなたから名乗られても良かったのではありませんか? もしかしたら、その拍子に吾が何か思いだしたかもしれないのに」
「ご自分のことで精一杯の状態で他人の名を耳にしたところで、心に留め置くことはできませんよ。私は印象に残らないような名乗りをする主義ではありませんのでね。これでも商人の端くれですから名を売るのも仕事のひとつです」
 ゆったりと頭を下げた男の物腰は貴人の如く優美なもので、国と国を股に掛けて飛び回る貿易商の図太さは感じられない。物見遊山に訪れた他国の富裕民だと言われたほうが納得できるというものだ。
 ふと頭に浮かんだ疑問に彼は不安になった。商人と名乗るからには損得で動く人種だ。この目の前の人物はどこの馬の骨とも知れぬ者を助けるだろうか。
 彼の心に浮かんだ不安が顔に出たのだろう。男は緩めていた表情を引き締め、少し傷ついた顔つきで口を開いた。
「商人は損得で動くだけだとお思いですね? 確かに仕事である以上、取引で利益を得ようとするのは当然のことですが、病人や怪我人を無慈悲に放り出すほど鬼畜な心根は持ち合わせておりませんよ。安心してお休みなさい」
 こちらに向き直った男が先ほどと同じく優雅に腰を折った。
「今後のことは食事を摂ってから相談しましょう。あぁ、うっかりしていた。無理に勧めてもいけませんね。食事よりも睡眠のほうが必要でしょうか?」
 身体の疲れはあるが眠気はない。それよりも誰かと話をしていたほうが気が紛れそうだった。そのほうが己が何者であるのか早く判りそうでもある。
「眠くはありません。食事をいただけるのでしたらお願いします。できれば、その席にご一緒していただけたら嬉しいのですが」
 喜んで、と答えながら男が表情を緩めた。やはり機嫌の良い猫に似ている。
「では、改めて。ようこそ我が館へ。私はギド商国の貴船主、ハウラ=ジロー・タケトー。ご滞在を歓迎いたします。どうぞごゆるりとお過ごしください」
 男の細めた三日月型の眼に害意はなかった。彼は名乗ることのできぬ己が身をもどかしく思いながら、ぎこちなく頷いたのだった。




 ガラガラと物が崩れる音が遠くから響いてきた。何事が起こったのかと驚き、フォレイアは座っていた椅子から腰を浮かした。
「あぁ、またあいつやらかしたな。公女様、そのままで。あの物音はオーレンがバケツをひっくり返しただけですよ」
「しかし……。ものすごい音であったぞ。怪我でもしておるのではないか?」
 落ち着かなげに視線を彷徨わせ、フォレイアは工房と食堂を仕切る戸口と目の前に座る男とを交互に見遣る。少年を助けに行かなくていいのだろうか。
「いつものことです。イコン族のお二人の荷物をまとめるくらい、あいつだけで充分。公女様に手伝わせたら後から師匠にこっぴどく叱られます」
それでも二人でまとめたほうが早いだろう、と出かかった言葉は飲み込んだ。たとえ弟分の知り合いでも工房の奥に入って欲しくないこともあるだろう。無理に押し入る気はないのだから、急かすような真似はすまい。
 この工房アトーにやってきてからのことを思い返し、彼女はいささか複雑な表情を作った。
 食事を摂った店から飛び出したオーレン少年を追いかけ、ジャムシードの兄弟子モスカイゼスが仮に借り受けている工房へやってきてみると、少年が要領を得ない説明を己の師にしているところであった。
 何があったのかフォレイアから説明を受ける間に少年に荷物をまとめるよう指示を出したモスカイゼスは、おおよその事情を聞くとフォレイアに香茶を勧めてきた。待っている間、手持ち無沙汰であろうから、と。
 大師匠ガーベイ・ロッシュは直弟子のアガラムと神殿に詣でているとかで留守であったが、モスカイゼスひとりで工房を開いていたようで炉は赤々とした炎を蓄えている。雨期の寒さもここからは逃げ出したような熱気だった。
 ジャムシードを炎姫家で召し抱えるにあたって、フォレイアは父の代理で彼の師匠であるガーベイ老に許可を求めに来ている。もっとも許可とは表向きで、炎姫家の名を出す以上は命令と変わりないのであるが。
 老師は以前の対面のときから薄々こちらの正体に気づいていたらしい。がしかし、兄弟子たちの態度は微妙なものであった。胡乱げにフォレイアを見、その後ろに従っている弟分の様子を複雑な表情で観察していた。
 以後、折に触れて顔を出すと下へも置かぬ扱いを受ける。しかし彼女には居心地が悪い場所のひとつであった。老師がいないと余計に疎外感を感じる。
「アガラム殿はまことに講師を引き受けてもらえるのか? 弟分の顔を立てるために引き受けたのであれば、立ち上げ時の混乱を一手に請け負うことになって気の毒じゃ。以前に同じ計画が上がったときにもひどい混乱であったし……」
 居心地の悪さに拍車をかけるような気もしたが、ここにはモスカイゼスしかいないのだからと、フォレイアは以前から気になっていたことを口にした。
 父アジル・ハイラーよりも何歳か年下であろうが、モスカイゼスには年齢を感じさせない若々しさがある。
 親子ほど歳の離れたジャムシードに対する口調も兄のように砕けたもので、フォレイアもガーベイ老の次に話しやすい人物として、この工房に立ち寄ったときには工房の運営方法などを訊いたことがあった。
 四番弟子のアガラムは一見すると人当たりの良い人物のように見えるが、ニコニコと笑っている表情の下で何を考えているか判らないところがある。
「アーガが引き受けたと言ったからには講師はきちんとやりますよ。頼んできたのがジャムシードだから引き受けたとは思えませんね。あいつは意外と損得勘定にはうるさいですから。自分に利益があると踏んで受けたはずです」
 ジャムシードが炎姫公に出した計画は、タシュタン地藩の中で何度も案が持ち上がり、そのたびに頓挫している事業と同じものであった。
 行政から訓練校の立ち上げを打診されるたび、工人組合からは猛烈な反発が湧き起こっている。各工房ごとに独自の技法を確立しているのであるから、わざわざ訓練校など設立する必要はない、というが彼らの言い分だった。
 厳しい徒弟制度をくぐり抜け、一人前の工人になったと自負する者たちには、官主導の訓練校など生ぬるい場所にしか映るまい。また、己の大事な技術をどこの馬の骨とも知れぬ輩に盗まれてたまるか、という憤りもあろう。
 堅実に工房を運営してきた工人はもとより、落ちぶれ金に困窮する工房の工人ですら、役人の口から語られる報酬そのものを眉唾だと思っていた。受け取った報酬以上になにがしかのものをむしり取られるに違いない、と。
 事実、過去の計画では、他人の技術が欲しい工房が役人に賄賂を渡して、己が欲しい技術を持つ工房を講師役に招くように推薦を出すよう計画を担当する役人に頼んでくることがあったと聞いた。
 そんな過去があっては新しい計画を進めていくのは極めて困難なことである。
「そうであれば良いが。計画が頓挫したらと思うと、つい不安になる」
 ふと目の前の顔が綻んだ。見る者を安堵させる温かい笑みにフォレイアは釘付けになる。父親とほぼ同年代の男がこんな風に笑えるものなのかと、目から鱗が落ちる思いだった。己の周囲にいる上流階級者なら見せない表情である。
「大丈夫ですよ。訓練校が開校するまでもうすぐです。心配はご無用に」
 モスカイゼスの作業着は小綺麗なものではないし、仕事中だったのだからそう格好にかまってもいられないはずだ。それでも無精髭は剃られ、衣装がだらしなく着崩れていることもない。最低限の身だしなみは整えられていた。
「それでもジャムシードにとて限界はある。過剰な期待を背負わせては気の毒じゃ。この事業は今までも計画されるたびに頓挫しておるし。どこから横槍が入るか知れたものではない。ジャムシードもピリピリしておる」
「公女様が心配することはありません。ジャムシードの奴がやると言ったからには、何が何でもやり遂げます。あれはそういう男ですから」
 こちらの心配をあっさりとかわされただけでなく、モスカイゼスが断じた弟弟子への高い評価にフォレイアは戸惑った。
 確かにジャムシードはよくやっている。だが貴族社会や官庁内部の事情に詳しいわけではないのだ。役人の世界は足の引っ張り合いである。
 如何に自分の不利を減らすか、他人の失点をあげつらうか。そんな駆け引きだらけだ。どちらかといえば人が良い彼が、いつか足下をすくわれるのではないかとハラハラして見ているというのに。
 フォレイアの困惑が伝わったのか、モスカイゼスが整えられた顎髭を撫でつけ、ううむ、と唸った。だがしかし、それは不安そうな表情ではない。
「シードの強情さをご存じですか? あれは普段はぼんやりしているように見えますが、いったん決めると梃子でも意志を曲げない頑固者なのですが」
 確かに頑固なところはあるが、フォレイアの記憶の中ではため息をついて諦めてしまうジャムシードのほうが強く印象に残っていた。それをモスカイゼスに伝えると、彼は苦笑いを浮かべながら首を振る。
「人の良さというか、人付き合いに関しては要領の悪いところがあるのは認めますよ。美味しいところを人に譲ってしまう貧乏くじ引きですしね。でも、自分から決めたことや正しいと思っていることを曲げたことはないはずです」
 あぁ、そうだったかもしれない。花都レパンタスで軍部の者と逢ったとき、同席した彼の手厳しさは予想外だったことを思い出した。
「過去に色々とあったんでしょうね。普段は素直で人当たりもいいのに、いざ理不尽なことがあると後先考えずに突っ走ってしまう。何度注意しても治りません。たぶん公女様にもそれで随分とご迷惑をかけていると思いますが」
 確かにシードには無謀なところがある。騎士の本分を尽くさない相手に、目を背けておきたい現実を突きつけたときの態度は容赦がなかった。本当なら隠しておきたい己の奴隷印を、あんな場所で見せつけるとは。
 忘れたい過去をほじくり返され、将軍は真っ青になっていたのだった。
 騎士も貴族社会に属する身。騎士の息子であったジャムシードが奴隷に落とされたのを目の当たりにし、己が堕ちたかもしれない地獄におぞけが走ったことだろう。国が滅びれば特権階級から底辺へと叩き落とされるのだと。
 フォレイアとて例外ではない。ポラスニアという国が滅亡して捕虜になれば、奴隷として売られるか、または陵辱の末に殺されるのが王族の末路だ。庶民以上にジャムシードの背に押された焼き印の禍々しさを実感できる。
「突っ走るから心配なのじゃ。どこかで邪魔が入るのではないかと」
「それでもジャムシードならやります。あの歳で独立工房を持ったのは伊達じゃないんですよ。師匠や我々兄弟子の援助などほとんどなしで、あいつは自分に約束した通りに工房を持ったんですから」
「約束……? 夢とか目標という意味か?」
「いいえ。約束……いえ、誓いと言ったほうが正しいくらいだ」
 モスカイゼスが食堂のほうを振り返った。まだ奥でゴトゴトと物音がする。オーレンは未だに荷物と格闘しているらしかった。
「あいつはすぐ上の兄弟子を疫病で亡くしていましてね。そのときに、その兄貴分の将来の夢だった独立工房を持つという目標を自分に課したんですよ」
 モスカイゼスはフォレイアの空いた茶器に香茶を注ぎながら話を続けた。
「独立なんて簡単にできることじゃない。お陰でこっちも墓の前で約束させられましたよ。独立工房を持つほどの腕前になるまで師匠に推薦してくれるなと」
 本当に頑固な奴だ、とモスカイゼスが楽しげに笑う姿が眩しい。妬ましい。浅ましい感情だと判っていても、兄弟弟子の絆を妬まずにはいられなかった。
 自分には与えられない温もりを、当たり前のように持っているジャムシードに羨望を感じずにはいられない。それが理不尽な感情であったとしても。
 消えてなくなって欲しい感情だ。それを飲み下すかのように、フォレイアは茶器を持ち上げ、香茶を喉に流し込んだのだった。