混沌と黎明の横顔

第02章:火炎樹に眠る神の夢 6

 自分の膝の上で眠る若者を見おろし、リーヴァ・セラは気難しげに眉を寄せた。これほど無防備に眠りこけられると、過去にこだわっている己の狭量さを否応なく知らされるようで、ひどく居心地が悪い。
 簡単な結界を張っているわずかな間に寝付いてしまうとは、この者は油断しすぎではないのか? それとも表だってはこちらを気遣っている素振りを見せつつ、実は憎まれていることにすら頓着していないのだろうか。
 人に興味を持つなどあり得ないと思っていた。だが、復讐の手段の一環で結んだはずの契約に縛られ、間近で過ごした憎むべき相手は無邪気なほど暢気で、こちらの思惑を飛び越えて懐に滑り込んできたのである。
『サルシャ・ヤウン。起きろ、ここで眠っては風邪をひくぞ。おいっ!』
 揺すっても起きそうもなかった。他の人間に邪魔されないよう結界は張ってあるが、先ほどの会話からこの後に会議とやらが控えているはず。それをすっぽかすような事態になれば、大騒ぎになるのではないのか。
『騒ぎになっても、そのとばっちりを我に持ってくるなよ』
 リーヴァ・セラはため息をつき、ずり落ちそうな王子の頭を片腕で支えた。残った腕を持ち上げ、王城に使われいる大理石のように白く滑らかな若者の額に掌を当てた。第三者が見たなら熱を計っているように見えたことであろう。
『核の覚醒がなされていないにしても、気づかなかったとは愚かだな。我が血の契約を結んだのは自業自得。だが、この者にとっては──』
 不意に口をつぐみ、リーヴァ・セラは鋭い視線で周囲の冷えた空気を見回した。何かを探るように蠢く黄金の瞳が、とある一点で止まり、見えぬ何かを焼き滅ぼそうとでもするかのように凝視する。
『出てこい。よくも我の前にノコノコと姿を現す気になったものよ。ここで逢ったが最後、魂魄まで木っ端微塵に吹き飛ばされるとは思わなかったか?』
 ヒラリと青い色彩が踊った。ヒラリ、ヒラリと。今にも力尽きそうな危うい動きで、両掌にすっぽりと収まりそうな蝶が木立の合間を舞う。
 ──ターナ・ファレス。話をさせて。少しの間でいいから。
聖なる娘ル・ファレ、いや……おかしいな。今のお前からはル・ファレの核を感じない。それに気配が奇妙に歪んでいる。何があった?』
 ──喰われたわ。わたしの器は滅んでいる。今のわたしは幽鬼のようなものよ。番人の力でかろうじて魂魄だけで生きている状態なの。
 喰われたという返事にリーヴァ・セラは目を見開いた。
 核を喰らうとなれば、それは同じ核の保有者と接触したということになる。あるいは核を創造した造物主と接触したか。いいや、造物主は核を喰いはしない。やはり保有者と接触し、この娘のほうが敗れ去ったと見るのが妥当だ。
『それで? 新しい核を手に入れにきたか。我が守る主人の、たとえそれが人であれ、命を脅かすとあらば容赦はせぬ。狩人ファレスの称号に相応しく、お前の魂魄を狩るまでよ』
 ──やっぱり、その子には核が植えられているのね。わたしがル・ファレの核を所有していたときには気づかなかったのが悔やまれるわ。あまりにかすかな気配で、しかもわたしと同じル・ファレの複製核なんだもの。波動が同調してしまって読み取ることができなかったのね。
 リーヴァ・セラは主人の額に押し当てていた掌を翻し、瞬時に唱えた呪文から火球を生み出した。ひらひらと不確かな軌跡を描く蝶に向かって一振りしようと持ち上げる。が、こちらを制する思念の声に動きを止めた。
 ──危害を加えるつもりはないの。今はね。でも忠告しなければならないわ。いずれはその子の核を回収しなければならないもの。……待ってよ。自分のために核を奪おうというのではないわ。番人に命じられたの。
『番人? 時守りのことか? だが番人は遙か昔に次元の狭間に雲隠れしたままだと聞いたぞ。我は生まれてから一度も逢ったことがない』
 いつでも火球を放てる体勢を取り、リーヴァ・セラは相手の出方を待った。荒海に浮かぶ島でこの娘を取り逃がして以来、忸怩たる想いを抱えてきたのである。ここで再会したからには今度こそ捕らえなければ。
 だがしかし、今まで下天に干渉するどころか、繭に眠る一族の者にすら姿を見せなかった時守りが関わってきているのが気になった。繭の中で子守歌代わりに長老から聞かされた知識では番人は不干渉を貫いていたはずなのに。
 ──バチンが下天に残した残骸を回収しなければならないの。わたしはその先触れ。この姿は下天の圧に魂魄だけのわたしが耐えられるようにとの配慮から。それと二度と核を保有できないようにとの思惑もあるわ。
『皆して、バチン、バチンと……。その残骸というのは、それほど厄介な存在なのか? 我にはいっこうに理解できん。何をしようというのだ、時守りは』
 青い蝶が吸い寄せられるように掲げた掌の火球へと近づいてきた。
『それ以上は近寄るな! 我は契約を全うするのに躊躇はせんぞ。ファレスに魂魄を砕かれたが最後、お前の魂は二度と再生しないことを忘れたか!』
 ──忘れるわけがないわ。あぁ、それこそがわたしの欲した力だというのに!
 危なっかしい動きで目の前を行き来する青蝶から切なげな波動が伝わってくる。嘆き悲しんでいる感情の奥深く、他人が触れることのできない最深部から放たれる、轟々たる激情は舞い飛ぶ虫には似つかわしくなかった。
 ──ファレスの持つその力。一族を破滅に追い込むほどの殺傷力! それがあれば創造への道は開かれたでしょうに。気まぐれな番人の下僕になり果ててなお妬まずにはいられないわ。どうしてファレスが人になどかしずくのよ!
 むせび泣くように空気が震え、自ら火球に飛び込みかねない蝶の舞いは、いよいよ狂気に彩られて危ういものに見える。
 ──デラが盗めたのなら、わたしが盗んで何が悪いの? 人ごときに植えられた核に一族の裁き司が仕えるなんて、どう考えたって間違ってる。
『デラが……何を盗んだと? お前、何を知っている!?』
 思いがけず養い親の名を耳にし、リーヴァ・セラに動揺が走った。内心の動きを端的に表し、掌上の火球が大きく揺らめく。だが弾け飛ぶのではないかと思えた火球の揺らぎは、蝶から放たれた次の言葉で一気に縮こまった。
 ──あなたよ。デラはバチンからあなたを盗んだの。あなたはマーヴェを処分した後に覚醒させられるはずだったのに、デラがバチンの結界からかすめ取って自らが造物主になろうとしたのよ。
『デラ、が……? 我、を……盗んで、造物主に?』
 チロチロと燃え、かすかな火花を散らす火球が悶え苦しむようにうねる。そして、見る間に小さくなるとリーヴァ・セラの掌中に吸い込まれていった。
 ──怒り狂ったバチンは下天を破壊し尽くそうとしたらしいわ。激怒するあまり、彼女が次元の歪みも考慮せずに魔力を暴走させたお陰で、わたしたち一族は繭の奥に避難するしかなかったから、外界で起こった詳しいことは知らないけれど。下天は彼女の影響で血の嵐が吹き荒れたと聞いているわ。
 嘘だ、と叫ぼうにも、リーヴァ・セラの喉はひりつき、言霊を紡ぐことは叶わなかった。何度か口を開いたが、音を発することなくつぐまれる。
 ──リド・リトーが動かなかったら、もしかしたら人は滅んでいたかもね。両性体ヤザンであるあなたは、バチンご自慢の作品になるはずだったから。
 耳に飛び込んだ言葉を咀嚼し、飲み込むまでにしばらく時間がかかった。それを理解するにつれ、鈍器で頭を殴られたような衝撃が全身を貫く。目の前が一瞬だけ真っ白になり、次いでグニャリと目の前の景色が歪んだ。
 作品? 作品とはどういう意味だ? ファレスという存在は確かに望まれて生まれてきたはずである。だが、その望みというのは作り上げた者の自己満足だったというのか。ただ単に、虚栄心から生み出されたと?
 息が詰まりそうな胸の苦しさに、思わず空いた手で自らの胸元を掴んだ。
 ──バチンは初めからマーヴェを処分する心積もりだったようだけど、長老や番人はマーヴェに意識があると確認してからは躊躇っていたと聞くわ。
 そんな話は知らない。無性体ユールクであるが故に、マーヴェは完璧ではないと聞かされただけ。その誕生にどんな背景があったか考えもしなかった。
 処分? 処分されたらどうなる? マーヴェはファレスであるための心構えこそ自らの態度で教えてくれたが、それ以外のことは本当に何も教えてくれなかったのだ。我々の誕生の背景も、自らが辿ったかもしれない末路も。
 ──その後、リド・リトーが強引にマーヴェを手許に置いてからは、番人は黙認する形で彼らの行動を許していたし、長老に至っては積極的にマーヴェを庇ってさえいた。マーヴェが滞り無くファレスとして機能していたから。
 こちらが沈黙しているからだろうか。蝶から伝わる思念の声は饒舌だった。
 ──デラがあなたを誕生させたと知ったバチンは、それまで玩んでいた人の王国に遣わした核を探索に当たらせ、それでも飽きたらずに奇形の獣まで作り上げたとか。リド・リトーが重い腰を上げるまで血の嵐は吹き荒れた。
 では、自分が生み出されたことで大地は血に染まったというのか。人を憎んでいる己自身が、この地に災厄を引き寄せてしまったと。その原因を作り出した本人として、デラは報復のために殺されたと言うのか。
 リーヴァ・セラは喘ぐように口を開いたが、己の鎖骨に当たる柔らかな感触に我に返ると、口をつぐんで腕中の存在に目を落とした。
 幼子がむずがるように身じろぎした人の子はあどけない顔で眠っている。こんな張りつめた空気の中でよく眠れるものだ。その図太さに呆れると同時に、沸き上がってきた疑問にめまいを感じた。
『デラは何がしたかったのだ? どうしてリド・リトーではなくナバト・ホーマに殺されねばならなかった? バチンは核で何をするつもりだったのだ?』
 ──すべてを知るのは番人くらいよ。答えを知りたければ番人を訪ねなさい。今わたしがはっきり言えることは、わたしはバチンと同じく人が嫌いで、だけど彼女とは反対にマーヴェが欲しいということ。それがわたしの真実。
 今まで思い込んでいた世界がひっくり返されて混乱しそうなものだが、リーヴァ・セラは自分の中の一部が異様なほど落ち着いていることを悟った。それまでは知らされた内容に拒絶反応を起こして暴れ出しそうだったのに。
 これもまた短い期間だがマーヴェとともに下天を見て回ったお陰なのか。それとも無邪気に自分を受け入れるこの人の子のせいなのか。ゆっくりと自分自身で考え、辿り着こうとしていた思考の果ての予感を裏付けられた気分だった。
『つまり、今までの話はお前の視点で見たものであって、我が一族全体の視点と一致しているわけではないのだな?』
 まだ結論を出すのは早いと理性が警鐘を鳴らす。と同時に、相手の話のすべてを否定できないと本能が囁いていた。
 ──何もかも一致してるわけないでしょう? でも多くの事実は重なっていると思うわ。それをあなたが信じるかどうかはあなたの勝手。あなたが決めなさい。わたしは最初に忠告だと言ったでしょう。
 知らず知らずのうちに腕に抱えていた若者を強く抱きしめていたらしい。息苦しさにむずがる気配に、リーヴァ・セラは慌てて腕の力を緩めた。
 ──その子、いつまでもそのままではいられないのよ。判ってる?
 思念の声が呆れ果てた調子で問いかけてくる。番人がバチンの残骸を回収すると決めた以上、いつかはこの者に植え付けられた核を抜き取ることになるのだ。そのとき、果たしてこの人の子は反動に耐えられるだろうか?
『バチンの残骸はいくつ残っている? どういう順番で回収を……』
 ──まずはあちこちに散らばっている結界の欠片を拾っていくわ。核の回収はその後になると思うの。だけど核の回収をするときは、その子の核を真っ先にいただくわよ。覚醒していないのなら抜き取りやすいものね。
 武者震いが身体を震わす。そのかすかな振動に若者が反応した。深い眠りの淵に沈む意識がゆっくりと浮上している。すぐにでも目を醒ますはずだ。
 ──そろそろ行くわ。ところで改めて言うまでもないけど、その子の核を抜くのはあなたの役目よ。罪人を裁き、その結末を見届け、すべての処理を終わらせるのがファレスの役目なのを忘れないで。わたしは見届け役。
 リーヴァ・セラは身を強張らせた。引きつりそうになる顔を隠すように、腕の中の存在に視線を落とす。だが、それは動揺をより深くしただけだった。
 ぼんやりと薄目を開けたサルシャ・ヤウンの定まらぬ視線とぶつかり、悪戯を見つかったようなばつの悪さを感じる。まだ意識がハッキリしないのか、寝ぼけた表情は幼子のように無防備だった。
 ──あなたがいなかったらマーヴェはあれほど憎悪されなかった。なのに、マーヴェはあなたを庇っているのね。このままでは消滅し、二度と復活しないというのに。憎らしい。いっそ彼にとどめを刺すのがわたしなら良かった。
 ふわりと蝶が舞い上がり、青い軌跡を描きながら、相変わらずの危なっかしい飛翔で遠ざかっていく。
 ──覚悟だけはしておいて。と言っても、憎い仇が相手だもの。そんなものはいらないかしら。たとえ契約主であっても、核を抜くという大義名分があれば命を摘むのも容易いことよね。それとも情が移った?
 遠ざかる蝶影とは反対に、思念の声は耳障りなほど大きく脳内に響いた。
『すべてを語る気がないのなら余計な詮索はしないことだ。お前の説教なぞ聞きたくもない。我は我自身が見聞きし、判断したことにしか従わぬ』
 ──半人前のくせに生意気ね。魔力だけ大きな、頭でっかちの子どもがだだをこねたところで、できる抵抗など知れているわよ。わたし同様、あなたも所詮は番人の掌で弄ばれる駒のひとつに過ぎないのだから。
 反論しようと歯を食いしばったとき、髪を柔らかく引っ張る力にリーヴァ・セラの気勢が削がれた。今の会話が聞かれたのかと焦り、腕の中を確認すれば、まだ半分ほど寝ぼけた顔がこちらを見上げていた。
 寝起きが悪い質なのか。それとも気づかぬふりをしているのか。ターナ、と呼びかけてくるヤウンの表情は無防備なままだった。
『人避けの結界を張っている間に眠ってしまうとは随分と気楽なことだな。のんびりとしていられる身分でもあるまいに。サッサと起きろ』
 リーヴァ・セラは若者の顔にかかった髪を払う真似をし、そっと額に触れた。先ほど感じ取ったように、消え失せそうなほど小さな気配が伝わってくる。やはり核はこの者の奥に深く根付いてしまっていた。
 ごめんね、と謝りながら身を起こし、ヤウンが伸びをする。その仕草はこちらを信頼しきり、己が仇として憎まれている現実など忘れているようだった。
 宮殿の方角を透かし見る若者の横顔をリーヴァ・セラは凝視した。交わされた会話を聞いた様子はない。いや、知られてもかまわないはずだ。所詮、彼は人の子なのである。だが、知られなかったことに安堵している自分がいた。
『そろそろ時間だろう。迎えがくる頃だ。早く戻れ。我も獣の中に戻る』
 首を傾げるようにしてこちらの話を聞いていたヤウンがひっそりと笑みを浮かべる。いつもの華やいだ微笑みではなかった。どこか寂しげで、何かを諦めたような微笑は、国を背負って立つ者の姿にはほど遠い。
「そうだね。不自由はないかい? 入り用のものがあったら届けさせるけど」
 人が使うものでリーヴァ・セラが必要とするものなどなかった。それはヤウンにも判っているはずなのに、それでも彼は毎度同じことを聞いてくる。
 交わる視線の奥底に横たわる感情はなんだろう。ひどく懐かしさを感じるが、それを認めるのが恐ろしかった。納得したが最後、立てなくなる予感がある。
 リーヴァ・セラは向けられる澄んだ瞳に耐えきれず、宮殿を見上げるふりをして目を背けた。早口に呪文を唱え、組み上げた結界を解いていく。
「久々にターナの姿を見たから見惚れちゃった。精霊ディンって美形だよね」
 リーヴァ・セラは顔を強張らせ、いよいよ素っ気ない口調で促す。
『くらだらぬ戯れ言に付き合う気はない。さぁ、結界は消えた。行け』
 若者に背を向け、意識を失っている獣へ一歩踏み出した。これ以上留まっていたら何か良からぬことを口走りそうだ。が、その歩みを止める声がかかる。
「ターナ。ちょっとだけ待って。すぐに済むから」
 軽々と走りより、ヤウンの両手が躊躇いもなく両頬を包み込んだ。驚きに対処が遅れたリーヴァ・セラは、そこでさらに身体を強張らせる。
 己の額にひとつ浮かんだ柔らかで優しい熱と巻き起こった小さなつむじ風。何が起こったのか理解するにつれ、愕然とした思いが頭をもたげた。
「この国では貴人からの祝福なんだけどね。母上の故郷では、家族や大切な人に挨拶代わりに贈るんだよ! また明日ね!」
 振り返れば、悪戯げな表情で手を振る姿が見える。こちらが何か言うのを恐れるように若者は身を翻した。あっという間に小さくなる背中を呼び止めたい衝動に駆られる。しかし、拳を固くしてそれに耐えた。呼べるものか。
 人影が完全に消えた後、リーヴァ・セラはそっと額に触れた。懐かしい。もう二度と手に入らないはずのもの。あの一瞬に感じた温もりは今は亡き養い親から与えられたものと同じで、湧き上がってくる思いに泣きたくなった。