混沌と黎明の横顔

第02章:火炎樹に眠る神の夢 5

 深まっていく木立の密度の隙間にチラリと白い影が透けて見える。木々が密集すればするほど、天空から滴り落ちる雨は梢の傘に遮られ、根本を歩く彼らの身体を濡らすことなく自然の交響曲を奏で続けていた。
「ターナったら今日はまた一段と奥深い場所にいるみたいだね。足下、気をつけて。この辺りの樹は根が踊っていて、人の足をよく捕らえるから」
 ヤウンはジャムシードに声をかける。彼は足場の悪い場所に差し掛かると再び娘を抱えていた。その斜め後ろには少年がピッタリとついている。
「殿下こそ気をつけてください。この場所で転んで足を挫きでもしたら元老院のお歴々に嫌みを言われるのがオチですよ」
「判ってるよ。ソージン、先に行ってターナを呼んできてくれる? 今日の雨は一段と冷たいからね。空き地で逢うより木立の下のほうがいいと思うんだ」
 ヤウンはジャムシードから視線を外すと、先頭を歩いていた小柄な男を振り返った。主人の依頼を聞くや否や、返事を惜しんで飛ぶが如く駆けていく後ろ姿は樹林の中で見ると牡鹿の跳躍のそれによく似ている。
 このポラスニア王国では雨期の冬、雪が降る地方は少ない。凍えそうに冷たい雨が大地を洗い、雨期が空けた後の乾期の間に作物を育て、生き物が生きて乾いた季節を乗り越えられるだけの滋養を河に注ぎ込むのだ。
 ドロッギス地藩の北部、国境の北辺である山岳地帯の高山でかろうじて降雪を見ることができる。当然、雪が降る現場を見た者は王国人の中に少ない。
 しかし、冬場のドロッギス地藩に足を踏みれた者ならば、大抵は雪は白いと知っているものだ。
 遙か西の国境である大山脈は天空を突き上げる高嶺に冬の間中、雲よりも白い冠を被り、紫紺の峰に美しいレース模様を描き出すのだ。
 ヤウンは僅かばかり地面がなだらかな場所で足を止めた。顔を上げ、彼は木々の枝模様に透けて見える大山脈の峰を見上げた。梢の隙間を縫って見えるその白さが今日は雨でくすんで見える。
 身体は冷気の鋭さに固くなり、気を緩めれば震えだしそうだった。今朝の寒さはこの冬一番だろう。宮殿の中ならば暖炉や薪ストーブの熱で温められ、ほどよい暖かさが保たれている。がしかし、人々の好奇の目を避けてターナに逢うにはこんな寂しい場所に来るしかなかった。
「あぁ、来たね。今日はこちらから呼び立てたからきっと不機嫌さ倍増だよ」
 足場の悪い場所をものともせず跳躍する影が視界に飛び込んできた。背後にいる少女と少年が息を飲み、ひどく混乱している気配がする。
 ヤウンは肩越しに振り返り、彼らをなだめようとした。が、その必要はなかったようである。すでにジャムシードが少女をしっかりと抱きしめ、少年の肩に手を置いて落ち着かせていた。
 その姿は父親然としており、ヤウンにはひどく羨ましい光景であった。亡き父に辛く当たられたことはない。だが、親密な親子の情を交わしたかと言われれば、首を傾げざる得ない自分の過去がなんとも物足りなかった。
 物思いに耽っているときではない。彼は姿勢を正し、自分の正面に鎮座した巨躯を見上げると、常に心がけている晴れやかな微笑みを浮かべた。
「ターナ。今日は一段と寒いけど不自由してないかい?」
 虹彩のない金色の眼が胡乱げに己と背後の者とを等分に見おろしている。がしかし、ここで背後の存在について細かな説明をする気は毛頭なかった。
「ヤウン。あまり言いたくはないが、部外者のしかも子どもに毛獣バウの存在を見せつけても良いことはないと思うぞ」
「うん。でもジャムシードも久しぶりにターナに逢いたいかと思ってさ。それに彼の娘とその護衛なら信用してあげてもいいんじゃない?」
 獣の瞳をジッと覗き込み、その反応を伺うと、予想通りというか判りやすいというか、ターナは見知らぬ存在である二人の子どもを凝視し、不機嫌そうに小さく鼻を鳴らした。基本的に人嫌いなのだから当然かもしれない。
「殿下。俺たちはそろそろ失礼します。この子たちに毛獣を見せる予定はありませんでしたし、荷物を取りにいってくれた公女様を待たせるわけにもいかないでしょう。朝の会議には間に合うように戻ってきますので……」
「えぇ!? せっかくだからお茶の時間までいたらいいのに。どうせフォレイアだって宮殿に来るんでしょ? 街は今日はひどい人出のはずだけど、子どもだけで残しておくのは危なくないの?」
「街に来ているのに王宮に閉じこめておくほうが酷でしょう? ここは子どもが遊べるような場所ではないと思いますが」
 ジャムシードの言うことは正しかった。この宮殿で子どもが羽を伸ばして遊べる場所など無きに等しい。子ども時代の己を思い返せば心当たりは嫌というほど浮かんできた。街で繰り広げられる大道芸のほうがよほど楽しかろう。
「あぁあ、いいなぁ。僕も街に降りたいよ。今日の商神ザンザの市は賑やかなんだろうね。戦の直後でも、毎月の商神講ザンザ・ウーリだけは活況だって話だから、たまには見てみたいんだけどなぁ」
 ヤウンは気さくな態度でジャムシードに歩み寄り、貴人の前で縮こまっている少年と少女の顔を覗き込んだ。ガイアシュと名乗った少年とは歳も近いのだが、相手はこちらの顔をまともに見るのも畏れ多いと俯いている。
 かたやジャムシードの娘ジュペは恥ずかしそうに父親の上着に顔を埋めながらも、好奇心からチラチラと王子の顔を伺っていた。
 対照的な二人に共通していることと言えば、顔を合わせてからほとんど口を利いていないところくらいだろうか。
「二人とも楽しんでおいで。今日を逃したら来月まで商神の市は立たないし、季節物の珍品は年に一度しか出回らないそうだから、来月でもお目にかかれないかもしれないよ。……それから、ここで見たことは外では内緒。約束だよ」
 唇の前に右手の人差し指を立て、ヤウンは秘密めかした笑みを浮かべた。悪戯の密約をする子どものような仕草に少女がクスクスと笑い声を漏らす。ガイアシュのほうはジャムシードと王太子を交互に見上げ、神妙な顔で頷いた。
「ところで、ジャムシード。商神講に行くなら何かお土産を買ってきてくれないかな。アルティーエのところに持っていきたいんだ。君の見立てでかまわないからさ。それに、近いうちに君も一緒に行ってくれると助かるんだけど」
「アルティーエ殿下の御前にですか? 俺が行ったところで殿下のお加減が良くなるとは思えませんが……。それに俺の見立てた品など──」
「いいんだってば。英雄からの差し入れなら飛び上がって喜ぶよ。それに差し入れは口実。君に逢いたいだけさ。助けてもらったお礼も言いたいだろうしね」
 困惑顔で押し黙るジャムシードを幼い二対の瞳が見上げている。あからさまだが、不躾な質問を憚る子どもたちの様子に、ヤウンは笑い出したくなった。
「ジャムシードは僕とアルティーエの悪戯の師匠なんだよ。機会があったら君たちにもその武勇伝を教えてあげる。それはもう、大人が手を焼くほど……」
 殿下、とジャムシードが話に割り込んでくる。遮らなければ自分の子ども時代の悪童ぶりを披露されてしまうのだから、彼を慕う子どもたちの前ではばつが悪すぎるというものだ。ヤウンは話の腰を折られて不満げな子どもたちに共犯めいた笑みを送り、今のところは大人しく引き下がった。
 背中をグイグイと押す気配にヤウンは首だけねじって振り返る。
 子どもたちが驚いて半歩下がったほどだから、背後の存在が不機嫌極まりない様子であろうことは振り返る前から予想していた。
 案の定、そこには無視されて怒る黄金のまなこが乾期の焼けつく太陽の如く爛々と光り輝いていた。自分に会いに来たはずなのに無関係な会話が交わされ我慢ならないのだ。
「ごめんね、ターナ。別に君を仲間外れにする気はないんだよ」
 今までの会話に加わっていない者は他にもいる。ヤウンは視界の端でソージンの様子を確認したが、彼は我関せずといった態度で周囲の警戒を続けていた。こんな寂れた場所であっても、彼は己の職務に忠実である。
「殿下。本当にもう戻ります。あまり遅くなると公女様と行き違いになるかもしれませんし、この子たちに話しておかなければならないこともありますから」
「うん。判ったよ。引き留めて悪かったね。またね、二人とも。ジャムシードも、また後で。会議はさぼらないでよ。君から直接、報告を聞きたいし」
 行儀良く礼をとり、少年と少女はジャムシードに連れられて王宮へと戻っていった。延々と続く王宮の建物そのものには入ることなく、彼らはこっそりと通用門を抜けて城下町へと帰っていくのだろう。
「んー……。ねぇ、ソージン。彼らを送ってきてくれる? 無事に宮殿から抜けられたらいいけど、頭の固い衛兵にでも捕まると厄介だからさ。君の知り合いだってことにしとけば、兵士相手でも大丈夫そうだし」
「おれがいなくてもジャムシードなら上手くやると思うがな。だが、お前がそう言うのなら従おう。……おい、そこのでかいの。おれがいない間はお前がヤウンを守るんだぞ。何かあったらタダじゃおかないからな」
 ソージンの表情は平坦で読み取りづらい。彼が本気でターナを脅しているのか、そうではないのか、さしものヤウンでも判断がつきかねた。グルグルと不機嫌そうに唸るターナは人間に脅されたと思い込んで腹を立てているが。
 再び飛び跳ねる牡鹿のように駆けていく白い後ろ姿を見送った後、ヤウンは改めて毛獣へ向き直った。相手が人であったら魅了されるであろう微笑みを浮かべてみたが、生憎とかなり機嫌を損ねているターナには通用しない。
 ──人の子など連れてきてどういうつもりだ。茶番になぞ付き合わぬぞ!
「ターナ・ファレス。そう腹ばかり立ててないで、僕の目をきちんと見て」
 機嫌が悪いのだから拗ねて無視することくらいするかと思ったが、意外にもターナはヤウンの言葉通りにこちらを見つめ返した。しかも目線をヤウンにあわせるために姿勢を低くするおまけつきで。
 人嫌いなくせに素直に従う。それがこの獣に憑く精霊ディンの単純なところだ。腹の内を見せない貴族や外面にこだわる宮廷侍従を見慣れたヤウンには、裏表のないターナの行動にはホッとさせられる。
 ──何がしたいのだ。毎日、飽きもせずに会いに来るのはいいが、お前もそんなに暇な身ではあるまい。見知らぬ子どもに愛想を振りまいて何か得になることでもあるのか? まさか、あの幼い娘の気を引くためではあるまいな。
「いつの間にそんな下世話な想像をするようになったわけ? 僕は八方美人だからね、誰彼かまわず愛想を振りまいておくのさ。それで損することはあまりないから。……それより、ジャムシードの中にいるお仲間と話はできたの?」
 ジャムシードは気づいたから子どもを口実に逃げ出したのだ。彼をここに引っ張ってきた理由は子どもに毛獣を見せるためではない。彼の中に眠っているらしい精霊と接触できないかと思ったからだ。
 ──駄目だ。マーヴェが眠っていることもあるだろうが、気配が何かに邪魔されている。こちらの呼びかけに応えているかどうかすら読み取れなかった。
 今までにも何度か試みたが、ことごとくハズレである。今回も駄目だったようだ。異形たちの動きはまったく見えてこず、世間では戦の中で芽生えた魔人ガダグィーンへの不信感だけが残っている。
「そっか……。なんとかして敵の動きを知りたいんだけどなぁ。いつも後手に回ってばかりじゃ癪だもの。でも、とっかかりさえないってのは厳しいや。ジャムシードはだんまりを通してるからあてにならないし。困ったねぇ」
 ──我にも何がどうなっているのか判らぬわ。長老タルクからも反応はなしだ。マーヴェは眠り込み、バチンの動向を知る術はないときている。
 苛立ちはヤウンとターナ、どちらがより強いのだろうか。一人と一頭は顔を見合わせ、同時にため息をついた。
 ヤウンはターナに腕を伸ばし、姿勢を低くしている獣の首にしがみつく。子どもがじゃれつくようで褒められた姿ではないが彼は気にしなかった。
「君がいてくれて良かったよ。そうでなければお手上げだったもの。まだ僕たちに何か出来ることがあるはずだ。諦めるのは早いよ」
 ──我も引き続き長老に呼びかけてみる。ジャムシードめ、あやつが協力したら何か掴めるものを……。誰に似たのだ、あの頑固者めがっ。
「きっとさ、敵に関することで僕たちに隠してることがあるんだよ。でなきゃ、ジャムシードが逃げ出す意味がないもの」
 互いの属する世界の要にいながら、ヤウンとターナは目隠しして世界に放り出されたような心許なさを同時に味わっていた。心細さは苛立ちに取って代わり、その矛先は必然的に目に見える存在、ジャムシードへと向けられる。
「君がマーヴェに呼びかけているのに気づいたってことは、ジャムシードも随分と精霊のことに詳しくなってきているってことじゃないかな。君の邪魔をしてる何かか、そのマーヴェとかいうお仲間が智恵をつけているね」
 ──マーヴェは我の三倍は長くこの人世界に留まっているからな。我はといえば、三百年の年月の大半を眠って過ごしてきた。何も知らされていないことも多い。経験の差もあろうさ。だからといって、ここまで当てにされていないとなると、腹立たしさを通り越して情けなくなってくる。
 ターナの取り憑く獣が項垂れる。その首にぶら下がっていたヤウンは腕を外し、黄金の眼を覗き込んだ。属する世界は違えど、肝心な人物たちから当てにされていないという点では同じような立場である。
「そう落ち込まないでよ。僕たちは負けたわけじゃないんだから。今のところ異形たちはなりを潜めている。ってことは、向こうにも相応の打撃があったってことでしょ。マーヴェがおおっぴらに動いてないのも、今は様子見か、休眠状態だからだと思うよ。糸口さえ掴めたら、真実に近づくことはできるはずだ」
 ──デラの仇を取れればよいと思って下天に降りてきただけだったのに……。
 嘆息する獣の瞳には深い憂いが浮かんでいた。それを言葉で慰めるのは容易い。だが共感して寄り添うのは難しかった。
 ターナが養い親の仇とつけ狙うのは、始祖王ナバト・ホーマの子孫として王家に君臨するヤウン自身なのである。成り行きの勢いとはいえ、ターナは仇を主人と仰ぐ立場にいるのだ。こんな滑稽な構図があろうか。
「ターナ。憎い仇の側にいるのはつらい? 君を苦しめているだけなのかな?」
 ふと顔を上げたターナの瞳が動揺に大きく震える。それをしかと確認したヤウンは、今までにない気配に首をひねった。憎んであまりある仇に同情されたくないのだろうか。それとも何か別の考えがあるのか。
 呼びかけようと口を開きかかったが、それが実行されるより先に獣の首が振られた。ターナが何を否定しようとしているのか、ヤウンは咄嗟に理解することができなかった。仇の側にいてつらくないはずがない。
「無理してるんじゃないの? 僕はときどき、自分でも厭になるほど他人の感情に無頓着になるんだ。暢気と言えば聞こえはいいけど、端的に言えば配慮に欠けてるだけのことさ。……僕は君に甘えすぎてるんじゃないかい?」
 ──お前が気にするようなことではない。
 ターナの固い気配にヤウンはしかめっ面になった。
 やはり憎むべき相手の側にいるのは苦痛なのだろう。そう思うのが普通なのだ。目の前の存在が人外の者であるから、その感情も人とは異なるなどと、どうして自分は思い込んでいたのだろうか。ターナは人間以上に人臭いのに。
「君が厭なら契約を取り消して……」
 ──簡単に取り消せる契約ならとうにそうしている。我らの契約は取り替えの効く単純なものではない。だが、そんなことはどうでもいい。我はお前と契約を交わしたことを後悔などしておらん。我の言葉を偽りだと思うな。
 真っ直ぐに黄金の瞳がこちらを見据えていた。先ほどかいま見えた動揺は見受けられず、もしかしたら気のせいだったのではないかとすら思える。
 ──契約を交わした以上、我はお前の嘘を見抜ける。それは同時に、お前にも我の偽りが見抜けるはずだ。我ら一族の契約とはそういうものだ。真実を語ることなく沈黙することはあっても、自ら進んで欺くことはない。
 確かにターナは嘘はつかない。単純で素直だからだとヤウンは思っていた。だが、そうではないらしい。
 精霊たちの契約がどういうものなのか、まだよく判らなかった。それでも、この直情型の異形が今までも仇であるヤウンに対して公正であったことは事実である。どれほどの葛藤があるにせよ、この目の前の存在は真実を偽り歪める卑怯な振る舞いだけはしないと、今は信じられた。
 素直に頷き、ヤウンは先ほどターナの気配に漂った動揺は何だったのかと考え込む。しかし判断材料が少ない今の段階で相手の内心を推し量ることは不可能だった。これは問うても答えてくれないだろう。
 ──そろそろ、あの護衛が戻ってくる頃だ。お前も戻ったほうがいい。身体が冷え切っているだろうが。部屋に戻って温まることだな。
「僕は大丈夫。それにソージンはまだ戻ってはこないよ。彼は僕がこの場から離れて欲しくて頼み事をしたと気づいているから。今頃はどこかで時間を潰しているよ。戻ってくるときは会議の時間を知らせに来るときさ」
 ──なぜそんなことを。いつも通り、少し離れた場所に遠ざけておけばいいではないか。わざわざ姿が見えぬほどの距離をおかずとも……。
 ヤウンは曖昧に微笑み、獣の鼻筋をそっと撫でた。
「ターナ・ファレス。久しぶりに毛獣から出てきてみない? 君の意志で宿主から離れることもできるんでしょ。毛獣にも君にも多少の息抜きは必要だよ。ずっと同化しているのは不自然なんじゃないかい?」
 ターナの気配が息を飲む。ヤウンはそれに気づかないふりをし、空の様子を眺めるように頭上を仰いだ。ただでさえ密集した枝に遮られて薄暗い林の中は、雨天のためにいっそう暗さを感じさせる。
「ソージンが側にいたんじゃ、元の姿になって出てきてもくつろげないでしょ。毛獣自身はソージンと仲がいいから問題ないけど、君は彼が苦手みたいだし、彼も君が獣の中にいないとなれば警戒するだろうしね」
 バゼルダルンの旧王宮の蔵書室で膨大な魔道に関する書物を読んだお陰で、ヤウンにはポラスニア人にしては豊富な魔術の知識がある。
 その大量の資料の各所でよく眼にした一文があった。魔力はともすると魔薬のように身体を蝕むものである、と。
 最初は使い方を誤れば身を滅ぼすのだと解釈していたが、実際に魔力そのものに人体を蝕む作用があるのだと理解するまでにそう時間はかからなかった。
「毛獣の意識に同調し続けるのも疲れるんじゃないの? この天気なら人の眼もないだろうし、たまには思いっきり羽根を伸ばしたくもなるでしょ。少しくらいなら僕から離れても平気だろうし、好きに振る舞ったらいいよ」
 長期間魔力に身をさらすには特別な体質でなければ無理だという。体質が合わない魔力を体内に保つには人の身体は脆弱すぎるのだと。そして、魔人であっても気を抜けば魔力に蝕まれて命を落とすことになるとも。
 精霊がどんな体質を持つ存在であるのかヤウンは知らない。だが、魔力の弊害を知った今、安穏と子どものように魔力に憧れる気は失せていた。
 そして、魔力の塊のような精霊たちがそれに冒されないとは言い切れないのではないか、と考え至るまでにもそう時間はかからなかった。
『震えているではないか。我に会いに来たせいで風邪を引かれては迷惑だ』
 急に音となって聞こえた声に驚き、ヤウンは振り返った。だが、目の前に立ちふさがった褐色の壁とふわふわ揺れる朱鷺色の流れが視界を遮る。
 これでは話ができない。相手との距離を取ろうとしたが、その行動を起こすより先に身体がふわりと宙に浮いた。いや、抱き上げられたというのが正しい。
「ちょっとっ! 下ろしてよ、ターナ! 何する気なの!?」
 樹木の根元にうずくまっている毛獣は昏々と眠っている。猛獣の意識から抜け出した朱き精霊は、主人を抱え上げたまま長い手足を器用に折り曲げ、眠る獣の腹に背中を預けた。ヤウンが暴れてもびくともしない。
 実体化したターナの身体は熱いほどだった。炎の属性を持つという精霊には相応しい。小さな子どものように扱われるのは不愉快だが、今日の寒さに辟易していた身にはありがたい温もりであった。
『人前ではファレスと呼べと言っているのに、お前は本当に無頓着な奴だな』
「でも、ファレスって呼び方、どうもしっくりこなくって。ジャムシードの中にいる存在に呼びかけているみたいでさ」
 間近にあるターナの瞳はどこか遠いところを見ている。その横顔を凝視したまま、ヤウンは首を傾げた。何を思案しているのだろうか。久しぶりに見るターナの表情は冴えないものだった。
『まぁいい。だが、関わりの浅い者の前であまり我の個体記号を呼ぶな。属名を知られるのはいいが、個体記号を知られると魔力のある者は利用しようとする。隷属させる力はなくとも、呼称には注意を喚起する力くらいはあるのだ』
 精霊たちは名を知られることを恐れているらしい。ヤウンが仕入れた知識を繋ぎ合わせて考えるに、名を呼ばれるということは呼ばれた相手の意のままに操られる危険性を孕んでいるのだろう。
「ごめん。考えなしで呼んでいたんだね。次からは出来るだけ気をつけるよ」
 揺らめく炎の髪を一房、ヤウンはそっとすくい上げた。柔らかな感触を楽しみ、彼はそれに接吻した。暖炉に当たるかのような温もりが心地よい。抱きしめられる体勢は気恥ずかしいが、包み込まれる安堵は眠りを誘った。
 久しぶりに羽根を伸ばしたのは自分のほうらしい。このまま微睡んだなら良い夢が見られそうだ。ターナが何かの呪文を呟いている。それを子守歌代わりに、王子は浅い夢の中にたゆたい、安心しきった微笑を口許に浮かべた。