海老のように跳ね上がり、崩れ落ちた身体を、彼女は冷めた眼で見おろした。
「いいざまね、バチン。わたしを捕まえて復讐するんじゃなかったの?」
激しく咳き込んでいる女の髪を掴み、乱暴に引きずり上げる。つり下げられた瓜のように揺れる女の白い顔と銀髪が己の姿に重なり、彼女はあからさまに顔を歪めた。漏らしたくなくても荒々しい吐息が出てしまう。
「腹立たしいわね。どうしてわたしたちはこんなに似ているのかしら。あの人の形代など欲しくはないのに」
無造作に女の髪を放り出すと、それに倣って女の頭が落ちた。鈍い音を立てて足下の岩に激突した女の口から苦痛の呻きが漏れる。
「あなたの本体への鍵はわたしが握っているのよ。今さら抵抗して何になるのかしら。早く自分の握っている核の在処を白状してしまいなさい。どれほど足掻いても、あなたに勝ち目などないのだから、早く楽になりなさいな」
「だ、まれ……。疑似幼体を、抱いて、母親気分に、浸っているだけの、お前のような女に、あの方を超える、ことなど、できるものかっ」
散らばった銀髪の隙間からドロドロとした怒りの視線が覗いた。その怒りに煽られたのか、彼女の胸の奥に熱い塊がせり上がってくる。
「もはや戻らぬ者に執着するだけのあなたに、可愛いマーヴェの世話など任せられないでしょう? 雌体としての欠陥を認めたらどう。あなたの心は氷そのものだわね」
「はっ! よくもほざくものだえ。お前は、生まれ損なった、自分の子を、腕に抱けなかった悔しさを、その出来損ないで、補っているだけだよ。お前こそ、認めたらどうだえ。母になれなんだ、愚かな女だということをっ」
片腕に抱く布の塊をちらりと見つめ、僅か腕に感じ取れる温もりを無意気に探った。そうしているだけで落ち着く理由が、目の前の女に指摘されたものだと己自身が判っているが、それを他人に言われるのは腹立たしかった。
「付き巫女の座にしがみつき、他人の肌の温もりも知らずに過ごした者が出過ぎたことを。女である自覚もなく、枯れていくしかないあなたに、わたしを理解することなど出来はしないわ」
「理解など、したいものかっ! 我らディーを裏切った、呪われし者めっ!」
力無く横たわりながら、呪いの言葉と憎悪の視線を向けてくる相手にこちらの言葉を理解させることなど最初から無理なのだ。そう痛切に思い至った。
「長老からせめて話し合いの余地を残して欲しいと言われたけど、最初から反抗しかしないのでは無意味ね。あなたのために嘆願した彼が哀れだわ。それもようやく終わりだけど」
女は左腕に丸々としたむつきを抱え、空いた右手をゆったりと虚空に差し伸べる。まるで指先だけで踊っているかのような優美な動きは、呪詛を吐き出すバチンですら一瞬目を奪われるものであった。
「話し合い? ハハッ! 笑わせるえ。このように締め上げておいて、話し合いもあったものではない。お前の話し合いは、相手を拷問にかけることかえッ」
「えぇ、話し合いよ。但し、本当の話し合いは三百年前に終わったわ。ここで話をしているのは、あなたの本体ではなく幻に過ぎない。わたしは今から過去の残滓を消すの。飛び散った飛沫の後始末に手間がかかるのが玉に瑕ね」
なんのことだから判らない、といった様子だったバチンが、徐々に表情を険しくした。身体が自由になるならば、今すぐにでも相手に飛びかかったに違いない。後ろ手に拘束される彼女の腕が怒りに震えていた。
「わ、我が身をゴミくずと一緒にするかっ! あの方の、ディーの聖域の側近くに仕えたこの身を、ただの塵芥のように消し去ると!?」
「あなたの本体は別の場所で眠っているわよ。今ここにさまよい出てきたのは魂魄の欠片でしょう? それを掃除して何が悪いのかしら。邪魔なものは消して元通りきれいにしなければね」
女の右手は空気を掻き回している。その場所の空間だけが渦を巻いて歪んでいった。覗き込む者を吸い込みそうな渦巻きが徐々に広がり、それを見上げていたバチンが不自由な身体で後ずさっていく。
「逃げても駄目よ。昔からあなたはあの人によくこのお仕置きをされていたものね。どうなるか憶えているわよね? 懐かしいでしょう?」
晴れやかな微笑みを浮かべる女とは対照的にバチンの顔色は蝋のように澱んでいった。この先に何が待ち受けているのかをよく理解している表情である。
歪んだ渦の中に女の右手が差し込まれた。ズルリと引きずり出されたのは銀環が揺れる錫杖である。それを片腕だけで振り上げ、素早く振り下ろした。するとそれは、女の細腕には似つかわしくない細身の剣へと変じていた。
「ア、アジェンティア。まさか、本当にそれを、使おうと言うのかえっ!?」
「あら、使ってはいけない法はないわ。逆らうのなら罰を受けなければね?」
こちらが一歩を踏み出すと、バチンが後ずさろうと藻掻く。それを見おろし、嘲るように口許を歪めたアジェンティアは、澄んだ輝きを保つ切っ先をのたうち回る女の目の前に真っ直ぐに振り下ろした。
刃は身体に触れてはいない。しかし、恐怖に凍りついたバチンは見開いた瞳を虚空に向け、ガタガタと全身を震わせていた。
「何になりたい? お仕置きに相応しいものに変えてあげる。……そうね。あなたが下天で巻き起こした騒動にちなんで、炎の罰を与えましょうか。それがいいわ。氷巫女のあなたにはもっとも堪える罰だわね」
どこか楽しげに聞こえるアジェンティアの声が途切れ、厳粛な女の声音が呪文を唱え始める。しばらくすると、身動きできないバチンの身体のあちこちから炎が立ち上がり、ユラユラと赤い舌を伸ばした。
「い、いやっ。ほ、炎の結界は……ッ! いやあぁぁぁっっ!」
「今さら何を言っているのかしら。魔火を呼び出すよう人間を操っておきながら、自分が炎に包まれるのは厭だと言うの? 残念ながら、あなたの言うことを聞く気はないわよ」
再び剣が振り上げられる。バチンは虚空を凝視したままだ。目の前に迫ろうとしている白刃の軌跡など目に入ってはいない。彼女はここではないどこかに心を奪われていた。それを知りながら、アジェンティアはさらに言葉を紡ぐ。
「さぁ、この聖火が作り出す火炎樹の中で眠りなさい。夢の中で永遠の牢獄に繋がれるがいいわ。あなたが喋らない核の欠片は、その夢に聞くことにしましょうね」
バチンを包み込んだ炎を切り裂く勢いで剣先が落ちた。刃を避けるようにして僅かな隙間が生じたが、それはすぐに二股の流れとなって広がり、とって返した切っ先の動きによって幾筋もに枝分かれしていく。
見る間に人の背丈の二倍はあろうかという高さまで炎は噴き上がった。奇妙な形に広がった炎は形を崩すことなく燃え続けている。それはずんぐりとした樹木の形に似ていた。アジェンティアが火炎樹と呼んだ通りの形である。
樹木の幹の部分にあたる炎の中心部で人影が揺らめいていた。それを透かし見、アジェンティアは満足そうに頷く。
「あの人との想い出に浸れるでしょう、バチン? そこで大人しくしていなさい。夢の中にいる無防備なあなたに真実を訊ねることにするわ」
腕の中の剣を一振りすると、再び錫杖が姿を現した。シャラシャラと鳴る環の涼やかな音色は耳に心地よく、アジェンティアの傍らで音もなく燃え上がる炎の手招きに応えているかのようである。
「こちらは一段落したわね。でも、まだまだ残骸はあちらこちらに残っているみたいだし、拾い集めるのに苦労しそうだわ。どうやって最後の一片まで集めたものかしら。放っておいたらまた増殖して悪さを始めるでしょうし」
ゆっくりと炎に背を向け、彼女は左腕に収まったむつきを覗き込んだ。ふんわりと浮かんだ笑みは優しく、また寂しげである。それは目の前の存在を見ていながら、そこにはいない別の者を見つめる目つきだった。
我に返ったアジェンティアが錫杖を掲げ、とある一点を凝視する。先ほどまでバチンと対峙していたときとはまた別種の厳しい眼差しが何かを射抜いた。
「ちょうどいいわ。どうしようかと思っていたけど、あなたへの罰はバチンの核と欠片を回収する作業をさせることで補いましょうか。永遠に幽鬼となって彷徨いたくはないでしょう? あなたに拒否権はないのだから、わたしに大人しく従っているのが得策だと思うわよ、アンディーン」
銀環を天に突き上げて軽々と円を描くと、虚空が歪み、何かがこぼれ落ちた。
ふわりと地面に降り立つ人影がアジェンティアの様子を伺っている。頬にかかる鈍い金褐色の髪が小刻みに震えていた。
「わたしが忠告しておいたのに界を渡らなかったわね。その弊害がどういうことをもたらすか判っているでしょう? バチンが作り出した奇獣たちと同じ末路を辿りたいわけかしら? それとも今でも世界の均衡を崩したいの?」
「ち、違うわっ。ここにいたいだけなの。もう世界を壊したいなんて思ってないわ。創造する力を失ってしまったのですもの。壊してしまったらニックスがここに戻ってこられないし、マーヴェだって滅びて……」
錫杖が騒々しく鳴いて抗議の声を遮った。不満と怯えをない交ぜにした顔が相手の出方を伺う。痛々しいほどの怯えようだ。
アジェンティアの前に引きずり出されたのは、何処へともなく逃げだし、捕らえられたアンディーンだった。人の世界で暴れ回っていたときの凶暴さはなりを潜め、今は嵐に怯える子兎のようである。
「それでは、これより我が世界のために働きなさい。わたしの加護なくして、あなたの魂は維持できないと判っているわよね?」
アンディーンは怯えながらも顔を上げ、震える声で反論した。
「そ、そうやって脅すの? マーヴェも、長老も、バチンも、あなたに振り回されっぱなし。ニックスだって、他の長老たちだって苦々しく思っているのよ。イターナ……きゃあっ! やめてっ。乱暴しないでっ!」
瞬く間に錫杖から剣へと変じた銀の光が少女の眼前に突きつけられる。端から見たなら無力な娘をいたぶっているように見えるだろうか。あるいは、赤子を守ろうと憤怒の表情を浮かべる母親のようだと?
逃げようと身を引いたときに足を滑らせ、少女は派手に尻餅をついた。が、それすら予測済みらしい。アジェンティアは切っ先を少女の額の中央に合わせてピクリとも動かさず、地を這うようなおどろおどろしい声を発した。
「あなたが口にしようとした名の者は、もうすでに存在しないのよ」
彼女の周囲の空気がにわかに熱を持ち、長い銀髪を舞い上げる。白刃を凝視する娘は気づかないが、アジェンティアの怒りの凄まじさを物語っていた。
「バチンの残骸を集めなさい、アンディーン。彼女があちこちに撒き散らした破片、あなたなら見つけられるでしょう? その合間にバチンが隠した核を取り戻すのよ。間違っても自分で使おうなんて思わないことね。そんなことをしたら、力の大半を失っている今のあなたは魂ごと消し飛ぶだけよ」
アンディーンの目の前から剣先が消えた。それでも彼女の震えは止まらない。よほどアジェンティアが怖いのか、それとも彼女が持つ剣が怖いのか。
「わたしはここでマーヴェと一緒に待っているわ。破片を回収したら持ってきなさい。……あぁ、いえ。待って。あなたに持たせるとろくなことはないわね」
錫杖に寄りかかって考え込むアジェンティアから少しでも離れようと藻掻くが、少女は腰が抜けたのか、その身体はいっこうに後ずさっていかない。
「他の誰か……そうね。マーヴェの精神体が守る人間。彼に持たせなさいな。名は確か、ジャムシード。そうだったわね? 彼を誘導して、ここまで連れてくるの。彼の中にいる存在とも話をつけなければならないから丁度良いわ」
晴れやかな微笑みを浮かべ、アジェンティアが錫杖を揺り動かした。銀環が賑やかな音を振りまき、その響きがアンディーンの身体を覆う。
「余計な悪さをしないように、あなたはこうしておきましょうね」
短い呪文が紡ぎ出され、少女の姿は掻き消えた。代わりに、凛然と佇む女の目の前には青い蝶がふうわりと頼りなげに舞い飛んでいた。
「行きなさい、アンディーン。あなたにも不満はないはずよ。再びマーヴェに逢えるのだから。いい子でいたら、もう一度だけ魂の舟に乗る機会をあげる」
白い腕が錫杖を打ち振る。耳障りなほど高らかに鳴り響いた金属音が静まると、青い蝶はよろめくようなたどたどしい動きで炎の樹へと近づいていった。それを眼で追いかけ、アジェンティアは蝶の動きを注意深く観察する。
蝶は炎の枝に触れそうで触れない距離を保ちながら、火炎樹の幹から梢へと昇っていった。赤々と、しかし音もなく燃え盛っている火柱にまとわりつく青色はあまりにもか弱く、今にも赤き舌に飲み込まれそうである。
徐々に頭上へと舞い上がり、小さな点となっていく存在を見守りながら、アジェンティアは厳しく口許を引き締め、青い点を凝視し続けた。
ようやく彼女の視界から蝶の存在が消え失せたとき、張りつめていた緊張の糸がプツリと切れたかのように肩を落とした。そして、身体に溜め込んでいた気力を吐き出すようにため息をつく。
「これでしばらくの間はジューン島にある白暁木の結界との均衡がとれるわね。バチンが新しい核を完成させていたのは予想外だったけど、人間たちの魂を完全に消費していなかったのは幸いだわ。ここまでは最小限の被害で済んでいるんだもの」
ふと左腕に抱えるむつきの存在を思い出し、彼女は布の奥をそっと覗き込んだ。優しい笑みが口許を綻ばせたが、それもすぐに消え、寂しげな視線が腕の中の小さな存在を見つめた。
「マーヴェ。あなたはわたしのやり方が気に入らないでしょうね」
むつきを抱え直すと、アジェンティアは火炎樹をチラと一瞥し、すぐに興味を失った表情になってきびすを返した。
背後の炎の支柱が照らす空間を後に、彼女は無の空間を移動していく。
「わたしの前に来なさい、マーヴェ。……いえ、アイン。もう茶番はたくさんでしょう? あなたが聖なる息子を抑えるために自らを犠牲にする必要はないわ。犠牲を最小限に抑えるというのなら、それはあなたではなく彼がなるべきでしょう」
むつきをそっと払い、アジェンティアは布地の奥に指先を差し入れた。指が辿るのは、柔らかな肉だった。それ以外、何もない。ただの、肉の塊であった。
「新しい器をあげるわ。あなたが正しい魂の旅路へ戻れるように──」
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