「なぁーんか、どんどんきな臭くなってくんだけどさ。オレ様ってば、どうしたらいいと思う? 大人しぃーく暗殺されちゃうのも癪な話だしぃ、面倒だからぜぇんぶ放り出して逃げちゃいたいけど、さすがにまずいかねぇ?」
「まともに相手してるのが面倒ならひとまとめに決着をつけたらいい。そのための権力だろうに」
ソージンはさざ波のような音で降り注ぐ小雨を見上げながら、傍らで座り込んでいる男に返事をした。が、返答そのものを相手が期待していたわけではないことくらい判っている。ようは愚痴りたいだけなのだ。
「権力を盾にやりたい放題ってか? まるで悪徳政治家だな、そりゃ。オレ様、今まで以上に月のない夜は独りで出歩けないなぁ」
「もうすでに独り歩きが難しい生活を送ってるだろうが。今さら、不便の一つや二つ増えたところで大差あるまい。せいぜい派手に暴れてやれ」
「いいねぇ、暢気な異邦人はよぉ。……あーぁ、気ままな旅暮らしに戻りてぇ」
寄りかかった樹木の幹は命の温もりを宿しているが、しとしとと梢からこぼれ落ちる天の雫は指先をかじかませるほど冷たかった。この国の冬は陰気で、鬱陶しいほどにじめじめしている。東方の乾いた冬の空が懐かしかった。
「愚痴を言っても始まらないのは判っているはずだぞ、ウラッツェ。自分の意志で大公になったことを忘れるな。それでも厭になったのなら後始末だけはつけろ。それが最低限の責任だろう?」
「判ってるっつーの。それでも愚痴りたいっつーの。もー、オレ様、限界。うんざり。はっきり言って、ムカついてしょーがねぇっつーの。自分の中に流れてる貴族の血すら憎ったらしいっつーのっ! ちったぁ遊ばせろっつーの!」
「……駄々をこねる子どもか、お前は。もう少しましな言葉を選べ」
木の根元に座り込み、幼い子どものように膝を抱えてうめいている男が、昨今の世間を騒がせている黒耀樹公だとは、その着込んでいる衣装を見なければ判るまい。ウラッツェのいじけきった態度はどう見ても大人げなかった。
王宮の片隅、こんな天気の日には人が寄りつかない一画で、どんよりとした空気をまとって独り座り込んでいる大男が、王国の三本柱である大公位にふんぞり返っている人物と同一だと誰が信じよう。
ふざけた態度と快活な喋りを知っているソージンですら信じたくなかった。
暗い。暗すぎる。大公の責務に押し潰される寸前のウラッツェは、公の場での仮面を外している今、腐りきっていた。
「オレ様、この仕事降りたい。降りていい? プッツリいって、あいつら刺す前にやめていいか? いっそ真面目に僧院で坊主の仕事したほうがましっ!」
僧侶などまともにできる性分ではあるまいに。今度は返事をせず、ソージンはため息をついた。こう何度も愚痴られてはたまらない。誰か代わってくれ。
「オレ様がこーんなに切実に悩んでるのに、その態度はなんでぃ、ソージン。友だち甲斐のない奴だなぁっ! あーっ、オレ様、独りだけ不幸ぉっ!」
こうなると愚痴というより八つ当たりだ。それでも、ここまで持ち直したと褒めるべきなのだろうか。異母兄が亡くなり、大公位に就いた直後の彼は死人と大差なかった。それが今では八つ当たりするほどになったのだ、と。
だが、それだからといって、大人しく八つ当たりされているのも面白くないのである。当たり散らすなら文句を言う相手に向かって言えば良いものを、その相手に言えぬ鬱憤をここで晴らされても迷惑千万だった。
「そんなに相談を持ちかけたいのならジャムシードかヤウンにでも言え。おれに文句を言ったところで何も解決せんぞ。あいつらに言ったから解決するとも思えんがな。……ほら見ろ。噂をすれば影だ」
王宮の敷地のはずれにある林は雨音以外になにもしない。だから、近づいてくる者の気配がよく判った。ここに姿を見せる者など片手で足りるほどであるから、歩いてくる物音で誰が来たのか判るほどなのである。
だがしかし、馴染みの物音に加え、今日は別の人間が立てる物音が一緒に響いてきた。日々の平穏を掻き乱す予感にソージンは顔をしかめる。
今ここにもぶつくさと文句を垂れている者がいるのに、これ以上の厄介事はご免被りたいのであるが、そうも言ってはいられないと直感が囁いた。
「あー……。この足音はぁー……おぉっ。オレ様のおもちゃッ! ジャムシードじゃねぇかよっ! 今回はいつもより王宮に来るのが早ぇじゃねぇの!」
さも嬉しげに飛び上がり、ウラッツェが眼を輝かせる。おもちゃと称された人物に秘かに同情し、ソージンや複数の気配がやってくる方角を振り向いた。
木々の間に見慣れた人影が見え隠れする。隣に佇むウラッツェが肩を揺らしながら「うっふっふっ」と不気味な笑い声を立てていた。
が、ジャムシードの傍らを歩く存在と彼が抱きかかえている存在を眼にした途端、大男は「うげぇっ」と蛙が潰されたような呻き声を漏らし、「あんにゃろ、またもめ事に首を突っ込みやがって」と苦々しく吐き捨てた。
ジャムシードのほうでもこちらに気づいたらしい。
僅かに眼を細め、了解を求めるように小さく頷いた。秘密の場所というわけではないが、うるさい宮廷人の眼を逃れられる安息の地に見知らぬ者を連れてきた後ろめたさがあるらしい。隣のウラッツェは忌々しそうに舌打ちしたが、ソージンは頷き返し、この場所に足を踏み入れることを許した。
ジャムシードとは半月ぶりになるが、また前より身体が細り、まとう空気に鋭さが増していることに気づかないわけにはいかない。
ウラッツェは気づいたかどうか知らないが、逢うごとに眼光が厳しくなり、如才なく周囲と渡り合う智恵をつけるにつれ、ジャムシードの周囲には見えない膜のようなものが張り巡らされるようになった。
ときに臆病に見えるほど他人の思惑を気にするところがある彼が、元から身につけていた人当たりのよい好青年の仮面の下で何をどう考えているのか、最近ではソージンにも読み取りづらくなってきていた。
今回は表面こそ平静さを保っているが、珍しくその仮面に亀裂が入っている。彼が腕に抱えている存在……十歳かそこらの幼い少女と、斜め後ろにおっかなびっくり従う少年が、ジャムシードの取り繕うべき仮面をはがしたのだ。
「久しぶりだな、二人とも。ソージン、紹介するよ。ジュペとガイアシュだ。……ジュペ、ガイアシュ。彼が王太子殿下の護衛騎士ソージンだ。それから、砂漠で顔を合わせていると思うが正式に紹介しておく。隣においでなのが、ドロッギス地藩主黒耀樹公ナスラ・ギュワメ殿だ。礼を失せぬように」
己の特異な外見に注目されることには慣れているソージンだったが、今回はウラッツェのほうがより強い注目を集めていることに少なからず驚いた。少年と少女はのっぽの男を穴が空くほど凝視しているのである。
砂漠という単語と彼らの驚きようから、ソージンは二人の子どもがイコン族であることを察した。居心地悪そうにそっぽを向いたウラッツェに助け船を出すことも忘れ、元々細い瞳をさらに細めて目の前の褐色の顔を睨んだ。
「イコン族が王宮に用事があるとは思えないが、お前が連れてきたということは砂漠で何か問題が起こったということか?」
「問題が起こったかってなもんじゃねぇだろがよ。なんでてめぇの娘とその護衛のガキがここにいるんでぃ。青のジューザの養女に収まったはずだろうが」
ジャムシードの娘などという思わぬ単語を聞き、ソージンは目を見張った。
「なんだってそう、てめぇって奴は騒動に巻き込まれやがンだ。また今回も自分から首を突っ込んだんだろ。たいがいにしとけよ。今は他人様のことにかまってられる状態じゃねぇだろ。イコン族のことはタシュタンの狸ジジイに任せとけよ。いくら配下についてるからって、てめぇの範疇じゃねぇだろが」
おもちゃで遊べなかった腹いせか、あるいは本気で心配しているからか、ウラッツェが腹に溜まっていたらしい苛立ちを一気に吐き出す。その剣幕に恐れをなし、ジャムシードの腕に抱かれていた少女がブルブルと震えだした。
「ジ、ジャムシードは悪くありません、大公閣下。オレが、全部悪いんです!」
半歩後ろにいた少年がジャムシードを押しのけるように前に進み出る。赤みのある褐色の肌でもハッキリと判るほど彼の顔色は悪い。これは大公家の当主に話しかける重圧だけとは思えなかった。
「ウラッツェ。ガミガミとうるさいぞ。まるで気が触れた女が尻に敷いた亭主を怒鳴り散らしてるように見える。少し頭を冷やせ。……で? ジャムシード。この坊主が言ったようにお前は無関係なのか? おれはそうは思えんが。ここに来たということは、すでに厄介事を背負い込んでいる証拠だろう?」
子どもの前で当たり散らすウラッツェを牽制し、ソージンはジャムシードに問いかける。ジャムシードの苦い表情から内心の苦渋が見て取れた。
「イコン族の連中に気づかれないように、この子たちを砂漠に帰したいんだ。トルトーまで安全に街道を行けるよう、通行許可証と護衛の手配を殿下にお願いしようと思ったんだよ。俺が送っていくわけにはいかないからな」
結論だけ説明され、ソージンは眉間に皺を寄せた。自然に話の続きを促す目つきになる。が、当の本人から説明されるより先に話に割って入られた。
「ジュペの部族内での立場が弱まってきていたんですっ。だから! だから、オレはジャムシードのところに身を寄せたほうが幸せだと。ジャムシードならジュペを絶対に見捨てたりしないからっ。でも、だけど……オレがジュペを連れ出したせいで、ジューザは追っ手を……」
「違うよ。わたしがお父さんのところへ行きたいって言ったんだもの。ジューザおじさんはナナイに跡継ぎを産ませる気でいるんだから、わたしがいなくなったって困らないじゃないっ。……どうして一緒にいちゃ駄目なの? どうしてお父さんと一緒にお母さんを迎えにいっちゃ駄目なの!?」
勢いよく少女の瞳から涙が流れる。堰き止めていた感情が一気に溢れたのだ。
「ったりめぇだろうが。嬢ちゃん、何を勘違いしてるのか知らねぇが、ジャムシードはもうイコン族じゃねぇ。イコン族の権利を全部放棄する代わりに、砂漠での騒ぎは不問にするってぇ約束なんだ。今さらイコン族のもめ事に巻き込まれるなんざぁ、予定外も予定外、あっちゃなんねぇことなんだ!」
「やめろっ。ジュペに当たることないだろうが。大人の事情を……」
「ざけんな! ガキだからって言っていいことと悪いことがあるぜ。てめぇの立場が弱くなったから他人に頼って後押ししてもらうって? ジャムシード、てめぇはまた都合よく利用されて大人しく引き下がるつもりか!?」
子どもを挟んで掴み合いになりそうな二人の間に割って入ると、ソージンは顎をしゃくって木立の向こう側に注意を促した。しゃくり上げていた少女はえづくような勢いで泣きじゃくり、少年は土気色の顔で俯いている。
「喧嘩は後だ。どうやら裁定者が現れたようだから智恵を借りたらいい。どうせお前たちが言い争ったところで最終的な決定はあいつが下すんだろう?」
ウラッツェとジャムシードが木々の合間に覗く人影を透かし見、すぐに姿勢を正して出迎えの体勢を取った。ソージンは宮仕えの窮屈さに失笑し、肩書きだけは同じ宮仕えの立場ながら、自身は悠然とした態度で主人を出迎えた。
「なんの騒ぎ? 木立の入り口まで響いてきたよ。……あれ? 見慣れない顔があるね。今日はあちこちで色んな珍客に出逢う日だなぁ」
梢から滴り落ちる雨水を避け、王太子がソージンたちに近づいてくる。優雅な身のこなしは連日の激務など想像もさせないほど落ち着いていた。
緩やかな笑みがこの場に蔓延していた緊張感を僅かばかり拭い去る。見た目だけなら美少女の王子を見て、青ざめていたガイアシュの顔に血の気が戻った。
少年は気恥ずかしそうに視線をあらぬ方角に向ける。が、すぐに相手が何者かを思いだし、慌てて腰を折った。泣いていた少女も必死に泣きやもうと頑張っている。だが、こちらは成功したとは言い難かった。
「女の子を泣かせたのは誰? 紳士にあるまじき失態だよ」
眉間に皺を寄せ、居並ぶ男たちをぐるりと睨み回した王太子だったが、ジャムシードと視線が交わった途端、元通りの華やいだ微笑みを浮かべた。
「久しぶりだね、ジャムシード。訓練校の講師は順調に決まってるらしいね。資金繰りもめどがついたと、炎姫公から報告が上がってきてるよ」
ジャムシードに話しかけつつ少女に歩み寄り、王子は幼い頬にそっと触れた。
「無理に泣きやむ必要はないよ。死ぬまで泣き続ける人はいないからね」
少女は父親の上着にしがみつき、しゃくりあげる。ジャムシードは娘の肩を抱き寄せ、ウラッツェはその姿を眺めて忌々しそうに口許を歪めていた。
傍観者の立場にいる王太子とソージンは、それぞれ対照的な態度でその場の様子を観察する。王子は無言のうちに流れる場の空気を読むために熱心に、ソージンはと言えば己の手に余る雰囲気に辟易しながら。
木立の隙間から滴り落ちる雫が彼らの肩を冷やしていくが、誰ひとりとして建物の中に入ろうと言い出す者はいなかった。
サルシャ・ヤウンが穏やかな微笑みを浮かべたまま、ふと頭上を見上げる。
「早朝は降ってなかったのに。朝食後、急に降り始めるなんてね。この具合だとターナは今日も不機嫌になってるかもしれないよ。寒いのは苦手みたいだ」
日頃から行動を共にしているソージンには話中の存在が何者であるのかすぐに判ったが、砂漠から旅してきた少年と少女には唐突な話題だったらしい。どう反応したら良いのか判断がつかず、ガイアシュがまごついていた。
「君たち二人はファタナ砂漠から来たんでしょう? 今の時期、砂漠の気候はどんな具合なのかな。ここのように雨に降られることもあるの?」
首を傾げるように少年の顔を覗き込み、サルシャ・ヤウンが問う。おろおろと戸惑う少年の代わりに、ジャムシードが王子に問い返した。
「ヤウン殿下。なぜこの子たちがイコン族の者だと……?」
「アジル・ハイラーから報告が上がってきていると言ったでしょう? 報告は君の仕事の成果だけじゃないんだよ。内密に王都での探索願いも出ている。イコン族青の部族長から直々に逃亡者を探索させて欲しいとね」
少年の喉が大きく鳴り、少女が小さな悲鳴を上げる。「ジン・ガズー!」とジャムシードからは王国人なら誰もが使う悪態が飛び出した。
「イコン族は先頃の戦で北の少数民族を抑えてくれた功績があるからね。そう邪険に扱うこともできない。だから探索の許可は出したんだ。まさかジャムシードと関係がある人物たちだとは思わなかったな」
ちょっと早まったかもね、と呟きながら、王太子は肩をすくめる。
「さしずめ、ジャムシードは滞在許可を求めにきた、といったところかな?」
何も説明せずともこれだ。若者の勘の鋭さには感心を通り越し、呆れるばかりだった。と同時に、ジャムシードの持ち込んだ厄介事に頭が痛くなる。
「先越されてンじゃねぇかよ。ってより、向こうの方が上手ってことか」
ウラッツェが渋い表情をしてジャムシードと彼の連れてきた子どもたちを見比べていた。その視線の先の人物たちも似たような表情である。
「そんな辛気くさい顔しないでよ。探索を許可しちゃったことはどうしようもないけど、滞在許可を出さないとは言ってないんだから」
「おいこら。ここでてめぇが滞在許可出したら、探索に来た奴らにどう言い訳する気だよ。このガキどもが逃亡者だと知らなかったと言ったところで、イコン族との間に波風立つのは確実だろうがよっ!」
「何言ってんの? 僕が許可を出すなんて言ってないでしょ。滞在許可を出すのは君だよ、ナスラ・ギュワメ。黒耀樹公の君が出すの」
驚愕の表情でウラッツェが「なんだとぉっ!?」と大声を上げた。ソージンはその瞬間、ジャムシードの瞳が輝き、すぐに曇ったのを見逃さなかった。
「殿下、それでは黒耀樹公と炎姫公が対立してしまいます。第一、王都の滞在許可を黒耀樹公が出すのは不可能では……?」
「心配ないよ。王都はドロッギス地藩内にあるから都市の滞在ではなく地藩の滞在だったら黒耀樹公の範疇になるんだ。……というわけだから、サッサと滞在許可証発行してよね。うだうだ言ってると、うるさいおばさんの攻撃から助けてあげないよ。今朝も母上のところにねじ込んできてたし」
ウラッツェの頬が目に見えて引きつっている。内心の怒りか焦りか、彼の表情は非常に複雑だった。さりげなく脅されたことより、王太子の最後の言葉に強く反応したことはソージンにもよく判った。
「さて。それじゃあ、ターナに逢いにいこうか。ジャムシードも一緒においでよ。ターナに逢うのも久しぶりでしょ。その子たちも連れてきていいから」
急展開に茫然としている少年の背を押し、ジャムシードの腕を取ると、ヤウンは木立の奥へ向かう。父親にしがみつく少女もつられて一緒に歩き始めると、ソージンは彼らの背後に付き従った。
取り残されたウラッツェがひとり「オレ様だけ不幸だぁー!」と空に向かって吼えていたが、それはあえて無視することにした。
王太子はすべてを見透かしているのか。もしかしたら今の王国に起こっている騒動すべて、この少女めいた王子の掌で踊らされているのではなかろうか。そんな錯覚に陥りそうになり、ソージンはあるかなきかのため息をついた。
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