混沌と黎明の横顔

第02章:火炎樹に眠る神の夢 1

 微睡みの中で見るかおは、果たして誰の顔であったろう。今となってはもう、遠い昔の人だったようにも思う。
 灼熱に燃え盛る身を封じるために眠りについた火炎神のごとく、このまま眠りの中に漂うほうが幸いなのかもしれない。見つめるあの貌は、決して我が身を許してはいないのだから。憎しみと悲しみは、今もなお連鎖し続ける。
 嗚呼、頑ななる者、睡神と手を携えし呵責と激情の番人フラムスよ。御身の眼裏まなうらに閉じこめし紅玉の瞳には今なにがまざまざと映され、その心を奪っているのか……。


 腕の一掻きごとに感情が粟立った。それを無視するには、心を支配するものはあまりにも大きい。どれほどの時が経とうと、この想いは消えなかった。
 いつまでこうしていればいいのだろう。誰のためにこうしているのだろう。それすら忘れ去ったとしても、このさざなみ揺れ動く想いだけは残るのだ。永遠に。傷つき血を流す猛獣のごとく。
 激しい苦痛の中で感じ取れるのは、弾き飛ばされた衝撃だった。濁流の中で藻掻くように流れに逆らい、漂う先に向かうまいと抗う。周囲は薄闇に包まれ、ここがどこで今がどの季節なのかも判らなかった。
 誰かが呼ぶ声がする。それが我が名を呼んでいるのか、近しい誰かを呼んでいるのか、それすら判らぬほど心は千々に乱れ、何者かに訴えるように叫んでいた。この激情を抑える術は見つかるのだろうか。
 奔流に乗り、どこまでもどこまでも漂っていくと、その先で見知った気配に遭遇した。忌々しい、この気配。不意に沸き上がる苦い想いとねじくれた憎しみ。先ほどまでの激情に通じる感情が胸中を支配した。
 再び相まみえたからには、この想いをぶつけずしてどうしようか。ニガヨモギのごとく心を占める苦々しいこの想いを。
 だがしかし、その激情の中で気づいてしまう。我らは同類なのだと。己の中に巣くう憎悪と同じ冷えた感情が相手の気配の中に刻まれていた。目を背けることができぬ、たぎる想い。無視することなどできようはずもない。
 そうとも。できぬのだ。同質の、冷たい怒りに気づいてしまったのだから。
 この感情をなだめるために必要なものは! 嗚呼、必要なものは──




 鈍い思考力しかない頭を振り、ジャムシードは小さく嘆息した。
「いったいどうしたのじゃ、浮かぬ顔をしよぉって。まさか宿酔ふつかよいではあるまいな?」
「いや……。なんだか夢見が悪くて寝た気がしないんだ」
 振り返ると、怪訝そうに眉をひそめた炎姫公女の顔がある。女性の平均身長よりやや高めの彼女は、冬場の今は厚めの底を打ちつけたブーツを履いているお陰で、ジャムシードの身長と握り拳一つ分ほどしか差がなかった。
「昨夜の大河は少々荒れておったからのぅ。知らぬ間に船酔いを起こしたのではないのか? ヤウン殿下へのご挨拶の前に少し休憩を取るか?」
「いいよ。そんなことしたら半日くらい眠り込んで起きないぞ。ここ最近は組合の連中との折衝が続いてろくすっぽ寝てないんだから」
 ジャムシードは苦笑いを浮かべ、公女を促して歩き出す。ここで立ち話をしていても始まらないのだ。仕事を早く終わらせて休むほうが気楽でいい。
「しかし、今からじゃと朝一番から会議になろう。そうなれば殿下のことじゃ。お前を引き留めて山ほどの仕事を押しつけるに違いなかろう? 半日休んで夕刻から出向くか、今日は一日休んで明日以降に会議に出席したほうが……」
「その分だけ仕事が遅れるじゃないか。炎姫公は一日でも早く施設を稼働させたがっておいでだ。教鞭を執る人材の確保は急務だよ」
「だからと言って! それでは倒れてしまうではないか」
 せっかちに歩くジャムシードの後ろをフォレイアが小走りについてくる。その表情には気遣わしげな部分と苛立っている部分が等分に混ざり、まるでジャムシードを睨み殺そうとしているかのような険しさが宿っていた。
「のぅ、ジャムシード。何を焦っておるのじゃ。お前の仕事はジノン卿も手伝いを申し出てくれておる。自分ひとりで何もかも抱え込もうとするでない」
「だからだよ、公女様。ジノン卿が手伝うということは、彼があんたに接触する機会を増やす口実になるじゃないか!」
 フォレイアがぽかんと口を開けて立ち止まる。気配でそれを察したジャムシードも足を止め、内心にわだかまる懸念を吐き出した。
「ここ数日、あんたはジノン卿と眼を合わせもしないじゃないか。彼に何かされたんだろ? そんな奴に近づかれたんじゃ、仕事がまともに回っていくかどうか怪しいもんだよ。だから、彼に付け入る隙は与えないと決めたんだ」
 唖然と立ちすくんでいる公女の顔がジャムシードの言葉を理解するにつれ、真っ赤になっていく。おろおろと視線を彷徨わせ、言葉にならない呻き声が漏れた。予想以上の動揺ぶりにジャムシードのほうが驚いたくらいである。
「あの……それは、少し違うのじゃ。ジノン卿は、別にわらわに嫌がらせをしたとかではなくて、その……少し、これには込み入った訳が……」
 フォレイアが言い淀んでいる姿など滅多に見られるものではなかった。そのことからも、彼女の動揺が並々ならぬものであることが予想できる。
「そこまで口ごもられると余計に心配なんだけどな。人に言えないような嫌がらせをされて、独りで悩んでるんじゃないかと……」
「違う! それは断じてない。彼は、その……非常に微妙な問題を……」
「やっぱり問題を持ち込んだんじゃないか! 人の迷惑を顧みずに騒ぎを巻き起こす輩を大事な仕事場に入れる気はないぞ。それでなくても官庁の連中はこちらの動向にピリピリしてるんだ。あんただって判ってるだろ」
 両手を揉み合わせ、フォレイアが落ち着かない様子で視線を明後日の方角に向けていた。頬は言うに及ばず、髪の間から覗く耳まで乾期の夕焼けのように真っ赤に染まっている横顔は可愛らしく見えるのだが……。
「公女様? まさかとは思うけど、男の俺に言うには憚られるような目に遭ったんじゃあ? そんな事態に巻き込まれているなら大公閣下に報告を……」
「ち、違う。違うのじゃ。ジノン卿はそのようなことはしておらぬ。その……少し前の晩餐の後で…………結婚を、申し込まれて……」
 最後は蚊の泣くような小さな声だった。ジャムシードは事の次第を理解すると、フォレイアの赤面が伝染したように真っ赤になった。
「ごめん……。その、俺はてっきりあんたとジノン卿が仲違いしているのだと思いこんでいて。ただでさえ俺のせいで風当たりが強いあんたが余計な心労を煩うんじゃないかと……。悪いことしたよ。余計な真似だったんだな」
 早朝とはいえ朝市が立つ大都市の河港の中は活気づいている。人の往来も激しく、往来の真ん中で立ち止まっている二人に急ぎ足の船商人や伝書を携えているらしい小間使いが非難の眼を向け、荒っぽい動作で脇を通り抜けていった。
「とりあえず、朝食を摂ろうか。それとも……食事は大公家の本宅で摂ったほうがいいか? それならすぐにでも大公屋敷に送るけど」
 そっぽを向いていた公女が視線だけ振り向く。まだ頬は真っ赤なままだった。
「朝食は、何を食べる気だったのじゃ?」
 一見すると取り澄ました冷たい顔に見えることもあるフォレイアだが、流し目を送りながら小さな声で問いかける様子は、普段は見せない艶っぽさと可愛らしさが現れ、いつもの孤高の華といった雰囲気は払拭されていた。
「あー……。いつも大公屋敷で食事を摂っているあんたの口に合うかどうか判らないけど。俺は一応、聖都ウクルタムに来たときは焼きたてのパンと豆のスープ、それに干し魚と野菜の煮こごり和え、あとは気が向けば干し果実も一緒に注文するかな」
 ごく一般的な飯場イムクスでの食事風景を思い出し、ジャムシードはつらつらと答えを返す。この王都での朝食はまだ粥が一般的ではない。神都カルバでの生活が長いジャムシードには朝食は粥を食べる習慣があったが、王都では粥よりもパンのほうが美味で、ここではいつもパン食だ。
 東方からもたらされた穀類が食卓を賑わせているのは海都ゲランがもっとも盛況だ。次いで王国の食糧庫である神都が活況で、徐々に聖都へもその食文化は浸透しつつある。
 幼少時から王都で生活し、成年後に他都市の食習慣を知ったフォレイアにはパン食のほうが馴染みがあるだろうが、庶民と王族の食事では根本的に内容が異なっているはずだ。豆スープや干し魚が彼女の口に合うとは思えない。
 食べつけないものを食べるのは苦痛はなずだ。慣れた食事のほうがいいだろう、とジャムシードは大公屋敷へ公女を促そうと口を開きかかった。
「羊の窯焼き肉と美味いワインを出す店はあるのか?」
「え? そりゃあ、多少は値が張るけど羊肉を出す店くらいはあるよ」
「では、そこに案内いたせ。海都での魚介類料理にも飽きてきた頃じゃ。久しぶりに脂の乗った羊を窯焼きで食べたくなってきたところじゃからのぅ」
 今度はフォレイアがジャムシードを従えて早足で歩き始める。その後ろ姿を追いかけ、すぐに追いつくと、ジャムシードは困惑して訊ねた。
「あんたが普段食べている食事と比べたら、俺の知ってる店の炙り肉なんてのは、お粗末なものかもしれないんだぞ。そんなんでいいのか?」
「かまわぬ。しかし、その店での支払いはお前持ちじゃぞ。……で、どちらに向かえばよいのじゃ? このままだと朝市が立つ大広場まで行ってしまうが」
 港を出てすぐの四つ辻で、フォレイアは立ち止まると隣の連れを振り返った。
 おごりと聞いてジャムシードは頬を引きつらせたが不平は言わなかった。フォレイアは勘違いをした彼の無礼を朝食をおごらせることで許す気なのだろう。
「このまま真っ直ぐだよ。大広場の手前に小間物問屋の商館があるのを知ってるか? その脇の横道を一本入ったところの酒場兼業宿屋イムケイリュが美味い羊肉を扱ってる。師匠や兄ぃからの受け売りだけどな」
 炎姫公女の口に合う羊肉とワインともなれば、それ相応の値段を取られるはずだ。今現在、まともな収入が約束されていないジャムシードではあるが、空回りしていた自分が悪いのだからこの出費は目をつぶるべきだろう。
「受け売りということは、お前は食べたことがないのか?」
「残念ながら羊肉は食べたことがない。俺は魚介類のほうが好みだから。でも魚介類は良い材料を使ってるし、羊肉もそれなりに厳選してるはずだぞ」
 ジャムシードに促されるままフォレイアは歩き出した。ようやく顔の赤みが引いた彼女の横顔はいつも通りの怜悧なもので、つい今し方の困惑などどこにも見当たらない。そのことにジャムシードは胸を撫で下ろしていた。
 港から離れ、人通りが僅かに引いたかと思ったのもつかの間、すぐに大広場へ向かう人の流れに巻き込まれ、二人は同時にため息をついた。
「そういえば、今日って商神講ザンザ・ウーリだったっけ。朝からこれじゃあ昼はもみくちゃだな」
 商売を司る神ザンザが支配する日は通常の朝市の倍近い人出が見込まれる。それというのも露天商が支払うべき出店保証金がこの日だけは半額に免じられ、売り上げの上納金すら半額でよいとされていた。しかもいつもなら半日で終わる広場の市が商神講では丸一日続く。この日に稼がずしてどうしようか。
 希少な珍品などを売るならこの日だと、日銭稼ぎの貧乏商人が眼の色を変えて押し寄せてくるのだ。買い物客も掘り出し物をもとめて右往左往し、人出を見越した露天飯場も大盛況の一日である。
「到着する日を変えたほうが良かったやもしれぬな。……食堂が空いておればよいがのう。運が悪いと店をたらい回しにされることになろうぞ」
 二人はどちらからともなく顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた。
 が、そのとき。鋭い子どもの叫び声が彼らの耳朶を打つ。意外と近場から聞こえた声に、ジャムシードは辺りを見回した。すぐに叫び声の主と思しき者を見つけ、その人物と連れを視界に収めると、彼は愕然と立ち尽くした。




 ゆらゆらと揺れる扇の動きは眠りを誘うように緩やかである。が、それを持つ指先が僅かに強張っているのを、シヴェラリアーナは視界の端で捉えていた。
「妃陛下。これは殿下の将来にも関わるやもしれません。どうか、妃陛下より殿下のご熟慮を賜りますよう進言していただけませぬでしょうか?」
「あなたが由々しき事態だと仰るのは、どういうものなのかしら? 私の下には憂慮すべき事柄は何も上がってきていないのだけれど」
 ハタと止まった相手の扇が口許を覆い隠し、伏し目がちな目元を際だたせる。かつては瑞々しく、きめ細かかったであろう女の目尻にうっすらとした皺を見つけ、シヴェラリアーナは目を背けた。
 自分の目尻にもいずれ刻まれるであろう年輪の印は、果たしてどのような形を取るのだろう。そのとき自分はどうするのだろう。この目の前に座る女のように、歳を重ねることを恐れ、隠そうとするのだろうか。
「巡検使というものを陛下はご存じであらせられますか?」
 殷々と響いた女の声にシヴェラリアーナは物思いから引き戻された。
「巡検使? その口振りですと、あなたはご存じのようね、リウリシュ妃」
「えぇ。その下々が賜る血濡れた役職を、我が黒耀樹家の当主と僭称せんしょうする輩が担っていたと知らせを受けましたので」
 激しい侮蔑が込められた口調にシヴェラリアーナは女を一瞥し、すぐに興味を失ったかのように視線をそらす。さらに退屈げにあくびまでして見せた。
「大公家の当主たる者が賤民のごとき役を担っていたなどと……。そのような醜聞はございませんわ。このことが世間に知られでもしたら、我が家は甚大な痛手を負うことになります。どうぞ王太子殿下に進言を……」
「巡検使などという役職が本当に存在するのですか? あれはお伽噺の存在でしょうに。そのようなことで王議会を煩わせるなど以ての外でしょう」
 女が一瞬だけ不快げに顔を歪めたのが、扇越しでも判った。
「巡検使の存在を信じている者たちの間に醜聞が流れようとしていますわ」
 国外からポラスニアという国の重鎮に嫁いできた共通項はあるにせよ、シヴェラリアーナとリウリシュはこれまで共闘することはなかった。これまでも適度な距離を保ちつつ、腹の内を見せることはなかったのだから、今回も、そしてこれからも互いがうち解けることなどあり得ないだろう。
「信じる者たち? そのような戯言にうつつを抜かす者などいるのですか?」
 冷たくあしらったつもりはないが、女の顔が氷の仮面をかぶった。戯れ言にうつつを抜かす者と一緒にされたと思ったのだろう。そのような扱いを受けたくなければ、確証のない噂などに惑わされなければよいものを。
「醜聞が広まれば殿下の評判まで落ちるかもしれませんのよ。失礼ですが、陛下はあまりにも暢気であらせられますわ。この話は大公家の当主が下々の役職に就いていたというだけの話ではありませんの。あの穢れ子は明かしてはならない秘密を暴かれたのですからね」
「どういうことなのかしら? 私にはよく飲み込めないのだけど」
 リウリシュの継子がかつて巡検使をしていたのが事実かどうかは知らぬが、それが暴かれてはならないことだったのだろうか。彼はすでに大公位に就いており、以前に就いていた仕事がなんであるかなど重要とは思えない。
「届いた知らせでは、あの者は自分が巡検使だということをある一族に知られてしまったのだそうです。王国とは複雑な関係にある地域の者たちに」
「それは黒耀樹家の領地ドロッギス地藩内のことなのかしら? それなら当主が以前に巡検使であったと知られては仕事がやりにくいでしょうけども」
「いいえ。領地内のことでしたら陛下に進言などしておりません。我が一族内部で処理しております。ことは他地藩でのことだからこそ、殿下のお顔に泥を塗るのではないかと恐れているのでございますわ」
 言葉を区切ったリウリシュに一瞥を与え、シヴェラリアーナは話の続きを促す。相手がもったいをつけているのは判ったが、ここで興味のない態度を取るほうが不自然だった。また彼女がどんな札を切ってくるのかも興味深い。
「他地藩では黒耀樹家の威信で黙らせるわけにはいきませんのよ。秘密を明かしたのはあの者が雇うた者とのこと。飼った犬に手を噛まれたのですわ」
 リウリシュが鼻息も荒く言葉を紡ぎ続けた。
「雇う者の人選もまともにできぬ者が黒耀樹家当主と名乗るなど愚の骨頂。まして、これから王国を統べる殿下の片腕となって働くことなどできましょうか。同じ過ちを繰り返し、国策の邪魔をするだけでございます」
 人肌の温みを保つ茶器を掌中に収め、シヴェラリアーナはのんびりと香茶を味わう。飄然とした彼女の様子に、女が焦れたように咳払いをした。
「正体が暴かれたことで何か被害が出ていますの? 被害がなければ咎めることなどできませんし、そもそもこの話の信憑性にも疑いがありますが」
「被害が出てからでは遅うございます。いえ、すでに出始めているかもしれませんわ。知らせでは、あの者は仕事を成功させこそしましたが、同行した者ともどもその地域を追い出されたと聞きました。向こうの一族に王国への警戒心を抱かせ、後任の者の仕事をやりにくくした罪は軽くはありません」
 先ほどより生き生きとした女の顔つきにシヴェラリアーナは内心で呆れ、出かかったため息を香茶と一緒に飲み込んだ。
「それでは、リウリシュ妃。あなたが仰ることは確証があってのことですね?」
「確かな筋からの知らせでございますわ。お疑いながら、あの者の周辺をお調べください。特に先の戦で、あの者が何をしたのかを。ですが、お気をつけを。あの者は我が息子ワイト・ダイスを狡猾にも陥れたほどの悪知恵が働きます。自然に見えることでも裏で何をしているか判ったものではありません」
 さらに鼻息が荒くなった女に冷めた視線を向けていたが、こちらとあちらの温度差など伝わるはずもなく、シヴェラリアーナは苦々しい内心を押し隠し、さも重大事を聞かされたと言わんばかりに重々しく頷いて見せた。
「あなたが仰りたいことは判りました。私からも息子にそれとなく注意しておきましょう。……悪い芽は早めに摘むに越したことはありませんから」
 前のめりになってこちらを伺っていたリウリシュが、とってつけたように……しかし貴族らしい優雅な動きで姿勢を正す。表情はしおらしく、国と一族のことを思い、忠義を立てているかの風情であった。だが、シヴェラリアーナには彼女が扇の陰でほくそ笑んでいるのが手に取るように判る。
 こちらが少々うんざりしているのも判っているはずだ。それでも邪険に扱わないであろうことも知っている。微妙な立場にいる息子サルシャ・ヤウンに確実に意見が伝わる方法を、この目の前の女は熟知しているのだ。
「殿下と妃陛下に我が一族の忠誠を。これでやっと正しき道が示せますわ。我が息子の魂も霊廟の下で安んじることでしょう」
 朝早くから押し掛けてきたことを詫び、リウリシュが楚々とした仕草で立ち上がる。見てくれだけは慎ましく、また堂々たる大貴族の奥方ぶりであった。己も第三者から見たらこう見えるのだろうか、と複雑な思いを噛みしめながら、シヴェラリアーナは元黒耀樹妃の退席を許した。
 付き添いの侍女がベルベットの上掛けを元公妃の肩に落としたとき、ふと振り返ったリウリシュが歳に似合わぬあどけない微笑みとともに問いかけた。
「アルティーエ殿下のお加減は如何なのでしょう? 噂では快方に向かっておいでと伺いましたが。間もなく王宮にお戻りに? お戻りになられたら我が家からもお祝いを差し上げたく存じますので、是非ともお知らせくださいませね」
 パラキスト王国訛りの発音がシヴェラリアーナの鼓膜を不快に揺らす。声は魔人ガダグィーンの呪術を受け、未だに僧院で軟禁状態の王女を嘲っていた。パラキストでは役に立たない女は粗略に扱われて当然らしい。
「えぇ、お気遣いありがとう。他の方々からもお心遣いをいただいて、あの子も幸せ者ですわ。近々、向こうへ出向く予定ですから、お見舞いの言葉は伝えておきましてよ。ワイト・ダイスの母上からのお言葉なら喜びましょう」
 リウリシュの眉間が一瞬だけ痙攣した。しかし、何事もなかったかのように一礼すると、女は二度と後ろを振り返ることなく出ていった。
 忌々しい。息子の人選にケチをつけるだけでも腹立たしいのに、娘が公式の場に出てこないことでさりげなく嫌みを言ってくる。あれは彼女流に僧院に入れたまま娘を聖界入りさせたらどうだと蔑んでいるのだ。
 手にした茶器の底に残った香茶がさざ波立っている。それで手の震えに気づき、シヴェラリアーナは自分の怒りを改めて自覚した。
「朝っぱらから押し掛けてきて何をほざくかと思えば。小うるさい女狐でしたね、母上。気分直しに香茶を入れ替えさえましょう」
 ふわりと背後の空気が動き、森を思わせる薫香が広がる。自分によく似た顔に覗き込まれ、シヴェラリアーナは吐息をつきながら微笑んだ。
「そうね、サルシャ・ヤウン。気持ちを切り替えたいわね。でも、油断はしないほうがいいわよ。あの人はあなたがここにいるのを知っていて訪ねてきたはずだから。私に話をする体裁を取って、あなたの耳に確実に入るように」
「承知していますよ。僕が母上に朝のご機嫌伺いに参上していることは宮廷に出入りしている者なら誰でも知り得ることです。同じことはやろうと思えば誰でもできます。但し、アルティを侮辱した罪は別ですけどね」
 華やいだ笑みを浮かべながら、サラリと内心の刃を覗かせる。外見の柔らかさとは反対の息子の剛胆さを王妃は頼もしげに見上げた。
「彼女が動く気でいるなら、中央貴族どもが動くわね。忙しくなりそうだわ」
 世間話の相槌を打つような軽さで王子が同意する。その横顔を見つめながら、シヴェラリアーナは亡き夫の遺言が実現しようとしていることを直感した。