背後に揺らめく気配を察し、ラシュ・ナムルはゆっくりと振り返った。
「やっと戻ったのか。……あちらでの首尾はどうだ?」
暗がりから音もなく歩み出てきた人影が静かに跪く。身体を覆い隠すフード付きマントが水面に広がる波紋のように皺を寄せた。
「万事ぬかりなく。……閣下の御意のままにて」
若い声だったが、その声音は研ぎ澄ました刃のように鋭利である。フードの下に覗く顎の線も口調に違わぬ鋭角を保っていた。声を裏切らぬ若さがマントの中に隠されているのは疑いようもない。
「判った。ご苦労だったな。あとは女狐が周囲に罠を張り巡らせるのを見届けておこう。ところで、王議会で出た結論はハミトに伝えられているな? 向こうにいるやんちゃ坊主がハメを外さぬよう見張っていてもらわねばならん」
「そちらも問題ありません。いつでも決着がつけられるよう伝えてあります。王太子殿下はまだ国王ではありません。今は中央貴族の反発を招く真似はなさらないでしょう」
「そうだな。まだ国王ではない。上級貴族の一部が横やりを入れているお陰で宮廷は殺伐としている。あれは人の住む場所ではないな。事故に見せかけた謀殺の噂を聞かぬ日はないというぞ。……殿下も妃陛下もお可哀相に」
哀れんでいるという割に、ナムルの口許は笑みに歪んでいた。状況を面白がっているのは明らかで、彼が何事かを企んでいるのも間違いあるまい。
「事が終わった後の女の始末はどうなさいますか? 黒耀樹を切り崩した後は用済みですが。質に取る価値もございませんでしょう」
「我らが手を下す必要もあるまいよ。だが余計なことが漏れぬよう他の者を監視につけておけ。お前も忙しくなる。後任を探す時期だろう」
御意、と囁き、若者が立ち上がった。フードに隠された顔の上半分はまだ見えない。ただ、鼻筋と口許から比較的整った顔立ちであろうことは予測できた。
立ち去ろうとする部下の背に、ラシュ・ナムルは愉悦の混じった声をかける。
「エッラ。私の娘を見ていくか? 意外と物覚えが良いぞ」
「楽しそうですね、閣下。王太子殿下好みに仕上がりましたか?」
僅かにフードを持ち上げた若者の瞳が好奇心に光った。光が当たった頬が弛んでいるように見える。主人に報告を終えた後の気安さが全身に漂っている。ナムルに呼び止められるまでもなく、彼も軽口を叩きたかったのだろう。
「いいや。どの女をどう仕立てようがサルシャ・ヤウンの好みにはならんよ。あの王子の気性では貴族女は合うまい。貴族の感覚とは相容れないからな」
ナムルは立ち上がり、暖炉に備えられた窪み棚へと近づいていった。エッラからの報告は終わったがまだ話し足りない。そんな気分であった。
チャザンで作らせた陶製の深杯を二つ取り出し、彼は暖炉の火にかけられたままになっている保温器から香茶を注ぎ入れた。本来なら彼が他人に茶を入れることなどあろうはずがない。
「にしても、あの者を我が娘と呼ぶには最近はいささか気が引けるよ。計算したらユーニと駆け落ちしていた時期の子どもになる。まるで私が浮気相手を孕ませて出来た子のようで。……どうせ貴族連中は噂話を咲かせているだろうが」
ふと空気が震えた気がして振り返ると、フードを払いのけたエッラが忍び笑いを漏らしているところだった。その従者の胸元に深杯を押しつける。
「楽しそうだな、エッラ。私が貴族の物笑いの種にされて嬉しいのか?」
「そんな滅相もない。ですが、愛娘が気が引けるなら妹だと吹聴されたら良かったのに。それなら今よりは居心地悪い気分にならずに済みましたでしょう?」
「そうは思ったがな。妹と娘では王家に嫁がせたときの影響力に差が出よう。何せ相手はあのサルシャ・ヤウンだ。あの歳で何重にも猫を被って貴族どもを煙に巻くのだから始末が悪い。私だとて油断すれば首根っこを押さえられる」
笑みが浮かんでいたエッラの口許が引き締められる。細めた瞳に再び鋭さが戻った。ナムルは香茶にたっぷりと蜂蜜を垂らし、それを溶かそうとユラユラと揺らす。その間にも、頭では今後のことをどうするか考えていた。
「王太子殿下の狸ぶりは閣下といい勝負ですね。さすがは閣下の直弟子だけはあります。ところで、炎姫公の甥のこと、どうされます? こちらの周辺を嗅ぎ回っている者がいるようですが。捕らえて目的を吐かせますか?」
「あぁ……。ジノンの手の者か。何が目的か知らぬがしばらくは泳がせろ。こちらの内情を掴んでいるなら、向こうから何らかの接触があるはずだ。何を企んでいるにしろ、今の我々では奴のことまで手が回らない」
忌々しさが胸にこみ上げ、無意識のうちに舌打ちする。その態度をエッラが小さく咎め立てたが、ナムルは無視して香茶を一口すすった。
「彼は伯父の炎姫公にも探りを入れているようです。こちらからも調べをつけておきますか? 炎姫家を押さえることができれば……」
「あまり一度に手を広げるな。監視を続けるのはかまわないが、積極的に関わりを持つには人手が足りん。巡検使どもも鼻を利かせているはずだ。あからさまに動くには、今はまだこちらに分が悪いぞ」
香茶は煮詰まり過ぎている。蜂蜜の甘ったるさと茶の渋みが口内に広がり、僅かなえぐみが舌先に残った。これでは蜂蜜など入れずに茶の渋みを味わったほうが味がいい。せっかく保温器に入れておいたのに損した気分だ。
「不味い。……エッラ。その香茶、飲まぬほうがよい。煮詰まりすぎてる」
ナムルは大の甘党ではあったが、甘ければ何でもいいわけではない。
亡くなった妻ユニティアは、なんでもかんでも蜂蜜浸しにして食べようとする夫の悪癖に顔をしかめたものだったが、それにしてもこの香茶は不味すぎた。
「入れ直しましょう。あまり渋い茶を飲むと寝付きが悪くなりますから」
行動を起こしたエッラは止める間もなく茶の準備を始める。もとよりナムル自身が茶を入れるより数段手早く、なおかつ美味いのだから、止める必要もなかろうが。それでもナムルとしては少々いじけた気分で若者の背を見守った。
「傷心中だとは思いますが、閣下のご身分から考えても、早く再婚していただきたいものですね。いつまでも香茶番を仰せつかってもおれませんよ」
「ユニティア以上の美女か、アデレート以上に素直で可愛らしい女を連れてこい。それ以外の女など興味ない。化粧臭い女も却下だ」
「ナムル様! 大抵の令嬢は化粧をされていますよ。それにユニティア様も毎日お化粧をされていたではありませんか。我が侭もたいがいにしてください」
先ほどまで座っていた椅子にだらしなく収まり、ナムルは口をへの字に曲げる。だだをこねる子どものようだと諫められても態度を改める気はなかった。
湯気を上げる茶器が目の前に差し出される。それを大人しく受け取り、ナムルはエッラを見上げた。そこには苦虫を噛み潰したように歪んだ表情がある。
若者の顔が、悪戯を咎める乳母の顔と重なった。幼い頃のばつの悪い記憶なのに、今またその表情と対峙するハメになっていささか怯む。
「ナムル様。あなたは水姫家の当主としてのお役目を果たす義務があるんですよ。それを疎かになさってはいけません。年若い王太子殿下ですら、その義務を果たされる覚悟がおありなのに、あなたときたら……」
「あー、もう。判った、判った。耳にタコができるからやめてくれ。そんなに跡取りが必要なら、父上の庶子の誰かを見繕って私の養子にすればいいんだ!」
「何をばかなことを言ってるんですか、あなたという人はっ!」
すかさず落とされた雷にナムルは首をすくめ、茶器から茶をすすった。今度はほんのりとした渋みと香茶特有の芳香が口腔を満たし、えもいわれぬ滑らかな舌触りを残して喉の奥へと消えていく。
「歳の離れた異母兄弟たちを養子にするくらいでガミガミと申すな」
「本当に異母兄弟かどうか判らないではありませんか。お父上が陰で認知されこそしましたが、彼らがあなたの弟たちだという証拠はどこにもありません!」
「父が認知したんだから、本当に血が繋がっているかどうかなど些末事だよ。金を目当てに寄ってきた女たちが子の出生を偽ったかどうか、父にも疑念はあったはずだ。それを不問にしているというのが答えだろう?」
「納得いたしかねます。水姫家の血統が途絶えてしまうような危険は避けるべきでしょう。ユニティア様のお子は望めないのです。もういい加減に現実を見てください。あなたは、ハスハー地藩を、我が子に、託さねばならぬ身です!」
年下の従者に説教されながら、ナムルは「まるで種馬だな」とぼやいた。その呟きを聞き咎め、エッラの眉がさらにつり上がる。しかし、大公はそれを片手を挙げて制し、皮肉げに片方の口角だけを持ち上げて笑った。
「判ったから黙れ。あまりうるさくすると口をトリモチでくっつけるぞ。お前の言う通りにしてやろう。……ただし、我が地藩の威信をもっとも輝かせることができる者でなければ意味がない。相手はおのずと絞られる」
胡乱げに眼をすがめたエッラだったが、主人の言わんとしていることを察して深く頷く。一瞬、なんとも言いようのない沈黙が二人の間に流れた。
「まぁ、しばらくは様子見だ。どう策を巡らせるのかは相手の出方次第だろうからな。……もっとも、ユニティアに夢枕に立たれて呪い殺されなければの話だ。私にはそっちのほうがあり得る気がするよ」
「そこまでお考えであったらなら、なぜ街娘などを正妻に迎えようと……?」
掌中で香茶の入った深杯を揺らしながら、ナムルは若者を横目で睨む。その瞳の冷たさに怯み、エッラが視線を逸らした。だが、咎める声がかからないことが居たたまれないのだろう。若者はもそもそと謝罪を口にした。
「エッラ。いかにお前でも次はないと思えよ。……そういえば、あの男は義妹が亡くなったというのにピンピンしているらしいな。なんと薄情な奴よ」
「えぇ、職業訓練校の設立を目指しています。実になってきているようですよ」
ナムルは茶器を机の上に戻し、親指と人差し指で自分の顎を挟むようにしてゆっくりと撫でる。考え事をするとき、たまに出る癖だった。
「炎姫公が承認したということは、タシュタン地藩でも奴隷の買い上げが始まるな。貧民の都市内流入も確実だ。我が地藩の場合は治安の安定が目的で始めたことだが、向こうは切実な人材不足を補おうという投資か」
「五年後、十年後には野心逞しい庶民が官庁を跋扈しているというわけですね」
ふとナムルは顎を撫でる指先を止め、タシュタン地藩で進んでいるであろう政策の中心となっている男の顔を思い浮かべた。
「その職業訓練校は何を教える予定だ? 細工師や商人の訓練校では?」
「え? あぁ、確か……初動は細工師で実験するようですね。次々に職種を増やし、最終的には役人を育てる資格学校を作るのでは?」
「あいつがそんな発想をするとは思えぬのだが」
エッラが首を傾げる。怪訝そうに主人の顔を覗き込み、ナムルの言葉の続きを待っていた。それに気づいた彼は、唇を一瞬噛みしめた後に口を開いた。
「ジャムシードひとりで考え出したものだとは思えない、と言っているのだ。奴に入れ知恵した者がいる。たぶん、サルシャ・ヤウン辺りが、な。奴を炎姫家に押し込んだだけではなく、何か企んでいるかもしれん」
「ですが、殿下の入れ知恵でも決断を下したのは炎姫公です。彼も愚かではありません。これまでにも同じような政策を打ち出し、そのたびに資金が集まらずに政策はとん挫、施設は放置されています。殿下からの入れ知恵だと知って、それを逆手に政策を断行する気で彼を取り込んだと見るほうが……」
薪が大きな音を立てて爆ぜる。その物音にナムルとエッラは振り返った。が、すぐに気持ちを引き締め直し、会話を続けた。
「アジル・ハイラーならそこまで読んで、奴を取り込んでいるのだろう。しかし、そうなると今度は今まで以上に強行に政策を推し進めていくはずだ。我々が農村部に打撃を受けている隙に彼らは体力をつけることができる。あの男が地藩の財力を蓄え始めては、こちらの邪魔をするのは確実だ」
若者の眉間に寄る皺が徐々に深く長くなっていく。主人から聞かされる話の内容が彼にこんな不機嫌な顔を作らせていた。
「ナムル様……いえ、閣下。やはり炎姫公の周辺を探らせましょう。手を広げすぎているかもしれませんが、用心しすぎるということはないはずです」
エッラの言う通りなのだろう。常に周囲を見渡していないと、いつなんどき足下をすくわれるか知れたものではないのだ。
だがしかし、先の戦いで農村部に打撃を受け、焼け野原になった都市を再建している状況では、細々としたところまで眼が行き届かない。
特にこれまで王家と緊密な絆を築いてきていた黒耀樹家が揺れているのだ。大公家同士の力関係を入れ替える絶好の機会である。それをみすみす逃すわけにはいかなかった。混沌が深いほど黎明の鋭さは増すものである。
「監視は続ける。だが積極的に関わる必要はない。無謀な干渉は破滅を招く。誰だとて秘密を嗅ぎ回られるのは厭なものだ。ましてあの頑固なアジル・ハイラーとなれば、探りを入れるのも命がけだぞ。今はあの男の甥が何をしたいのか見極めることだ。それが自ずと炎姫家で起こっていることをあぶり出す」
気を揉んでいる若者が先走らぬよう釘を差し、ナムルは再び茶器を手にとって甘やかな芳香を楽しみながら仄かな茶の渋みを味わった。
「それよりもエッラ。先ほどの話が中断していた。あの娘を見ておくか? 磨きをかけたからな、目もくらむような美貌だぞ」
あれなら王宮中の男が鼻の下を伸ばしそうだ、と笑い、水姫公は複雑な表情を浮かべて立ち尽くす従者を見上げる。亡き乳母の末っ子は母親に似て心配性だ。ガミガミと説教まがいのことをするのも、その心配の裏返しだろう。
「魔導帝国と噂される北方の血を色濃く受け継ぐ方でしたね。さぞかし魔性の美に磨きがかかったのでしょう。あまり他の者には見せびらかさないでくださいよ。欲に目がくらんだ愚か者が血迷わぬとは限りませんから」
判っているさ、と気安い微笑みを相手に向け、ナムルは残っていた香茶を勢いよく飲み干した。その仕草にエッラが小さく「お行儀が悪いですよ、ナムル様」と咎め立てる。だが、素早く立ち上がり、扉へ向かうナムルが小言をあからさまに無視する姿を見つめ、若者は小さく嘆息するしかなかった。
置いて行くぞ、と声をかけられ、エッラはようやく足を動かす。それを振り返って眺めていたナムルが軽快な笑い声をあげた。
「そんな渋い顔をしていると歳よりも早く老けてしまうぞ」
若者の茶色みがかった黒髪の間から乾期の空を思わせる爽やかな青色が覗いている。「我が君のお守りは大変です」と冗談ながらぼやくその姿を見つめ、ナムルは不意に胸に沸き上がってきた想いを唾と一緒に飲み込んだ。
じゃれていても決して超えられぬ一線。何も言い残さなかった父を恨めしく思う。目の前の若者の出自を正確に証明できる者たちが亡くなった今、自分は慕わしい家族というものを永遠に失ったような気分になるのである。
今でもユニティアとの間で息子をもうけられなかったのが残念だ。もし息子がいたら、あの義父との間で息子はどちらの大公家の跡取りかと揉めただろうが、家族と呼べる者がいるほうが遙かにましと思える。
ようやくユニティアの死を受け入れた後、彼女との想い出である双弦琴の名手に興味を覚え、その縁で知り合ったアデレートとならこれから先の人生を一緒に過ごしていけるだろうと思えたのに。その幼気な娘ですら、あまりに呆気なくこの手の指の間から滑り落ちていってしまった。
この身が何をしたというのだろう。我が名の由来である水神ナウリは神話の中では大勢の麗しい娘や血気盛んな息子をもうけているというのに。
エッラや他の侍従たちが懇願するように、愛情など関係なく妻を娶り、早々に子を作ったほうが良いのかもしれない。
現に今、自分は野心のために養女を迎え、王家に縁付けようとしているのだ。そして、好きな女を正妻に迎えられないのならと、もっとも己の野心に最適な妻を迎えるため、水面下で機会を伺っている。
貴族の婚姻は家運を盛り上げる血の結びつきが重要だと、誰もが言うだろう。
ヒタヒタと冷たい廊下を進み、衛士が守る区域へと入っていくと、ナムルたちは甘い芳香が漂い始めた場所に引き寄せられていった。
幾重にも下ろされた綾幕の前に実直な顔をして二人の衛士が佇む。ナムルは変わりないことを確認し、先触れもせぬまま幕戸をくぐり抜けた。
抜けた先は控えの間の前室である。焼失する前の大公屋敷から辛くも運び出せた品々の一部が燭台の灯火に照らされて星のように瞬いていた。
足音に気づいたのだろう。控えの間から女官が顔を出した。驚きに目を見開く彼女を制し、ナムルはエッラを伴ってそこに足を踏み入れる。奥間の様子を女官から確認し、彼女たちを労うと、彼は当然のように奥へと向かった。
「あのっ! 閣下。あの……こちらの御方様も、ご一緒に、奥へ?」
控えめながら、女官の頭を努める女がエッラを伴うことに難色を示す。婚姻前の娘の部屋に、父や兄弟以外の男が足を踏み入れるのが気に入らないのだ。
「これから忙しくなる。私が出向けぬときは、この者が姫の話し相手だ。彼の指示は私の指示だ。お前たちも以後、見知り置け。……エッラ、お前もだ」
驚くエッラが次の瞬間には心得顔になり、取り澄ました態度で腰を折る。彼にとっては突然の指名であろうに、確信に満ちた態度が女官を納得させた。
背後に若者を従え、ナムルは奥間へと進んでいく。女官たちは控えの間で大人しく待機していた。足を踏み入れた部屋は薄暗く、暖炉の炎だけが室内の様子を光の輪の中に浮き上がらせていた。
この場の静寂を破ることを恐れるように、エッラが「あの娘ですか?」背後で囁く。ナムルたちの視線の先、小柄な人影が丸まっている姿があった。
暖をとっているうちに眠ってしまったのだろう。暖炉前に積み上げられた毛皮に埋もれるように手足を縮めて眠る少女は、あまりにも小さく見えた。
「子どもが起きているには遅い時間だから眠っているのは当然として。寝床から抜け出し、こんなところで休んでいるとはな。貴婦人教育は行き届いているとばかり思ったが、どうやらまだ修業は終わらぬようだ」
ナムルは苦笑いを浮かべ、足音を忍ばせて娘に近づく。同じく素早く従ったエッラが背後で息を詰めている気配を、ナムルは敏感に感じ取った。
「姫、起きなさい。こんなところで眠ったのでは風邪を引くぞ」
囁き、揺すっても、少女は昏々と眠り続ける。まるで夜を覆う睡神に寵を受けたかのような深い眠りは、見る者を不安にさせるほど静かだった。
乱れて顔にかかる髪を払うと、寝顔が二人の男の前にさらされる。その瞬間、エッラの身体がビクリと跳ねるのを、ナムルは視界の端で捉えた。
「美しかろう? 眠る姿はあどけないが、目を醒ましていれば愛神アルタと美を競い合った水乙女のごとき美貌だぞ」
ナムルは覗き込んでいた少女の寝顔から視線を逸らし、有能な従者へと眼を転じる。そこには声もなく娘の寝姿に魅入る若者がいた。暗がりの中でも紅潮した頬がハッキリと判る。見開かれた瞳は眠る少女に釘付けになり、揺すぶり乱れる内心の動揺を端的に表し、潤んでさえいるように見えた。
ナムルが呼びかけても茫然と立ち尽くしているばかり。これでは阿呆ではないか。ナムルは苛立ち、声を大きくした。
ようやく我に返った若者だが、表情は茫洋としたまま。瞳には動揺が残り、娘に近づくのを恐れるように身体が強張っていた。予想以上の困惑ぶりである。
なんということだろうか。この出逢いが水姫家にとって良からぬ予兆にならねばよいが、とナムルは内心で危惧を募らせるのだった。
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