混沌と黎明の横顔

第01章:双面神の戯れ 4

 ほろほろと白い頬をこぼれ落ちる涙を見ると、胸が引きむしられるように痛む。無意識に伸びた指先が雫を拭ったが、止めどなく溢れる涙はいっこうに止まる様子を見せなかった。このままでは体中の水分が流れでそうで……。
「アルティーエ。もう泣きやんで。ダイスの死はアルティのせいじゃない」
「そんなことないわ。訳の判らない術にかかりさえしなければダイスは……」
 弱々しく首を振る細い肩に手をかけると、サルシャ・ヤウンは痛いほど強く抱き寄せた。柔らかな羊毛織りの衣装の下に感じる身体は、以前よりも痩せ細ってしまった感がある。顔色も病的なほど青白さを増していた。
 僧院で治療を受ける双子の片割れを見舞うようになってから数ヶ月、彼女にかけられた呪詛の詳しい種類はまだ特定できていない。得体の知れない呪詛に蝕まれていると報告を受けたときは、彼女がいずれ衰弱してしまうのではないかと危惧したのだが、幸いなことに呪いは彼女の命を取りはしなかった。
「アルティ、ダイスの命を取ったのは異形の魔女ガダグィーナだと話したじゃないか。ダイスが亡くなったことは悲しいけど、君が彼の死を自分のせいにしていたのではダイスが浮かばれないよ?」
「でも! ダイスほどの腕前なら怪我さえしていなければ勝てたかもしれない」
 抱き寄せていた身体を離し、ヤウンは両掌で姉の頬を包む。涙に濡れた頬は冷たかった。特別に薪ストーブの使用を許された部屋は暖かい。が、それでもヤウンの指先は冷え、部屋の主人である少女も手足をかじかませていた。
 僧院の一角で暮らすアルティーエの身なりは、王宮での装いとは比べものにならないほど質素である。ここでは王女といえども限りなく清貧を求められるのだ。禁欲的な生活がいっそう彼女を追い詰めているのかもしれない。
「ウラッツェも殺されかけたと話したでしょ? どちらかと言えば、ダイスはウラッツェを庇って死んだようなものらしいよ。アルティが操られていたときに斬りつけた怪我がなかったとしても、彼の生存確率は……」
「確率なんてどうでもいいわ! ダイスは死んだのっ。死んじゃったのよ。もう、二度と逢えないのに。ヤウンはどうしてそう簡単に割り切れるの!」
「……ごめん。そうだね。僕だって割り切ってるわけじゃない」
 アルティーエは興奮して身体を震わせていた。膝に置かれた両手は強張り、スカートが皺になるほどきつく握りしめられている。それを痛ましげに見おろし、ヤウンは再び口を開いた。これは伝えておかねばならない。
「でもね、ダイスが死んで悲しんでいるのはアルティだけじゃないんだよ。僕はウラッツェの様子も見ているから。彼は兄がやるはずだった仕事を黙々とこなしている。まるでそれが贖罪だとでも言うかのようにね。本当ならやる気もなかったはずの大公位に黙って就いて、周囲の誹りを甘んじて受けてるんだ」
 固いベッドに腰を下ろす双子たちは、底冷えのする部屋の寒さが身を守るように、互いに身を寄せ合った。「だから、ウラッツェを慰めるの手伝ってよ」とヤウンが囁けば、少女は小鳥のように首を傾げてこちらを見た。
「ウラッツェ……落ち込んでるの? いっつも他人を煙に巻いて図太いのに」
「うん。最近はちっとも笑わないんだ。ううん、笑ってはいるんだけどね、仮面劇の笑い男のように作り物の笑顔だよ。僕やアルティーエに冗談を言って、おふざけでからかっていた頃が何年も前のように感じるほどなんだ」
「可哀相なウラッツェ。ダイスったら本当にウラッツェを騎士にしちゃったのね。噂で耳に入っていたけど、直ぐには信じられなかったわ。ダイスは異母弟の名どころか父親の話題にすら良い顔をしなかったんだもの」
 泣き笑いの表情を覗き込み、ヤウンは大袈裟なくらい破顔した。
「そうだよねぇ。僕も最初はびっくりしたよ。ウラッツェったら、今まで黙っていたけど実は魔人ガダグィーンの血を引いてて、魔力でダイスを操ったんじゃないのか、ってね」
「ウラッツェに活を入れてやらないとね。それとも、弱ってる今が絶好の報復の機会かしら? 今まで散々からかわれたんだもの」
 目尻に残った涙を拭いながらアルティーエが笑う。口の端が震えていた。まだ超常の者らに関する単語が会話に含まれると怯えが先に立つらしい。それでも僧院に運び込まれたときより表情が明るくなっていた。
「あんまり苛めないでよ。本当に参ってるんだから。ソージンやジャムシードには弱音を吐いるらしいけど、他の者の前では随分と強がってるんだからさ」
「ソージンとジャムシードって……あの、前に話していた、傭兵から騎士に取り立てた異国の者と、その、例の、お母様の……」
 言い淀んだ王女の頬が仄かに赤い。まだ潤みが残った瞳が抑えられない好奇心と気恥ずかしさに揺れる様子は年相応の可愛らしさだった。
「ソージンなら僧院の前庭で待たせてあるよ。逢ってみる?」
 姉が何に興奮しているのか判っていて、ヤウンはわざとはぐらかす。
「ヤウンっ! サルシャ・ヤウン! あなた、ヤウンのくせに生意気よ! 何が言いたいのか判ってるでしょ。白状しなさいっ。彼はどこにいるのよ」
 アルティーエの口を突いて出た子どもの頃からの口癖にヤウンは口角を持ち上げる。“ヤウンのくせに生意気”だと、意味が成り立たない暴言を振りかざす双子の悔しがりように、王太子はこのときばかりは胸を撫で下ろした。
海都ゲランだよ。今は炎姫公の下に入ってる。彼自身は細工師のつもりだろうけど、アジル・ハイラーは地方領主にしたいらしくてね、目下は彼を全力で鍛え上げているところ」
「……彼、結婚してるの? 確か、彼って二十代の半ばよね」
 まだ涙が残る瞳が、今は好奇心にきらめいている。僅かな間でもワイト・ダイスのことから意識が反らされるのなら、今はなんでも良かった。
「結婚はしてない。聞いた話では半年ほど前に神都カルバ工房アトーを持ったばかりだったそうだから、工房を持つまでは結婚する気なんてなかったんじゃないのかな」
 本当は知っている。ジャムシードはかの地で亡くなった義理の妹を愛していた。彼女とともに生きられないのなら、一生を独り身で過ごす覚悟をしていただろう。彼もまたアルティーエと同じく思い詰める質だ。
「工房って……。神都は焼け落ちてるんでしょ。どうして都に戻って工房を再建しないの? それに……き、決まった相手は? 結婚してなくても恋人くらいいるんでしょ!? ねぇ、ヤウンは知ってるわよね。教えなさいよ」
 逃がしてなるものかと言わんばかりに胸元にしがみつかれ、正直言えば重くて潰れそうだったが、ヤウンはそれをおくびにも出さず相手をなだめすかす。
「ちょっと落ち着いてよ、アルティ。そんな矢継ぎ早に質問されたら返事ができないでしょっ。ここで僕を絞め殺したら答えが聞けないよ」
 さすがにばつが悪かったのか、アルティーエはのし掛かっていた身体を戻し、素直に弟の前に座り直した。これから聞かせてもらう言葉の一語一句を聞き逃すものかと、似合わぬしかめっ面をする彼女の姿は微笑ましい。
 さて、どう説明したものだろうか。どこまで話しておけばいいのか判断に迷うところだ。何もかもを、そう己の推測まで話すことは危険すぎる。
「……アルティ。これから話すこと、誰にも言わないって誓える?」
「なぁに? 何か彼について良からぬ噂でもあるの?」
 話に食いついてきた姉の訝しげな口調にヤウンは微苦笑を漏らした。
「良からぬ噂なのかどうかはアルティが判断するしかないね。……彼は、たぶん異形憑きだからね。どう? 話を最後まで聞く気はある?」
 王太子はこれまでのジャムシードの態度や周囲の状況から導き出した予測の、ほんの一部だけを口にした。本当は真実など伝えず、嘘をついてでも誤魔化したほうがいいのかもしれない。
 しかし、姉に下手な嘘などつこうものなら、ばれたときにどんな報復を受けることやら。伝えるべき真実は確実に伝え、隠しておくべきことは何がなんでも隠し通さねばならなかった。そうでなければ二人を失うかもしれない。
 彼は浮かべた笑みの下で、自分が持ち出した賭けに冷や汗を掻いていた。
 今し方まで忘れていた厭な記憶が甦り、アルティーエの顔はみるみるうちに強張っていく。それを暗い思いで見守りながら、ヤウンは姉の出方を伺った。
「どういうこと? なぜジャムシードが異形憑きなどと……」
「僕がこれまでのことから推測したことだけどね。アルティーエを捕らえた異形はポラスニア王国だけではなく人間全体を憎んでいたようなんだ。
 過去になんらかのいきさつがあったことは予測できるけど、その予測のための情報をくれたのがジャムシードにまとわりついている精霊ディンなんだ。詳しく話すと長くなるから今は割愛するけど。
 最初はジャムシードに憑いているとは思わなかったんだよね。でも、ウラッツェやアジル・ハイラー、それからジャムシード自身からの報告の断片を繋ぎ合わせてみると、彼に憑いているとしか思えない節があるんだ」
 王女が大きく体を震わせる。自身を襲った恐怖を再び思い返し、そこから導かれた最悪の結果を、またしても思い出しているに違いなかった。
 涙が再び盛り上がり、目尻から決壊して溢れだす。どうやっても、姉に巣喰った心の傷は彼女を傷つけずにはおれぬようだった。
「アルティーエ。……つらいようなら、この話はまた今度にしようか? 少しずつ慣らしていけばいいんだから、無理しないほうがいいよ」
 幼子のようにしゃくり上げ始めた姿にヤウンは胸を痛めて顔を歪める。甘えたところはあったが明るく利発な双子の片割れの変わり様に、誰よりも苦痛を感じているのは彼だった。実の母親ですらこうまで傷ついてはいまい。いや、母の内心を伺い知ることは出来ぬから本心がどうなのかは判らなかった。
 再び痩せた肩を抱き寄せ、子守歌のように「泣かないで」と繰り返す。姉を苦痛の渦から引っぱり出すのは難しかった。長期戦になるだろう。
「アルティーエ。話はまた今度にしよう。近いうちに彼を連れてきてあげるからさ。もう泣きやんでよ。あんまり泣いてると涙で眼が溶けちゃうからねっ」
 かなりの時間が経っている。そろそろ仕事に戻らなければ。そう思うのだが、鼻をすすり上げる双子の片割れを置いていくに忍びない。こんな有様の彼女を独りにしていったのでは仕事が手に着かないこと確実だった。
「美人が台無しだよ。ジャムシードを連れてきたときには笑ってなくっちゃ!」
 王宮の悪意の中、二人で過ごしてきたからだろうか。自分たち双子の口調や態度が、ともすると同年代の者より幼いものになることは自覚していた。そんな王子と王女の姿に王宮侍従が良い顔をしないのも知っている。
 しかし、臆面もなく姉を抱き寄せ、こうして慰めるには都合がよい。そして、何より自分たちには自然体なことだった。
「ヤウン。ジャムシードはここに来てくれるかしら? ウラッツェと親しいのでしょう? 友人の兄を死なせる原因になった女のところになんか……」
「来てくれるよ。君を責めることなど考えてない。それよりも君を助けることが出来なかったと自分を罵りそうだと僕は思ってるんだよね」
 アルティーエが顔を上げた。目を見張った彼女の表情に驚きが浮かんでいる。
「なぜ? 彼はウラッツェと一緒に助けに来たわ。気に病むことなどないのに」
「彼の周辺は複雑なことになってるんだよ。そこのところも詳しく話しておきたいけど、今日はどうやら時間切れみたいだ。そろそろ戻らないと……」
 名残惜しい。本当はこのまま王宮に連れていってしまいたかった。
 アルティーエがいないと城は寒々とした場所でしかない。母は父の喪に服しているし、王宮の侍従や女官たちはよそよそしい。媚びを売る役人や中央貴族の連中の顔など見たくもない。唯一の慰めが姉との会話だった。
 いや、もう一人いる。姉が戻るのを待っている人物が他にもいるではないか。彼女を心底案じている人物の顔を思い出し、ヤウンはうっすらと頬を染めた。
「アルティ。僧院長の許可が出るようならエスティラナをここに寄越そうか?」
 息を飲んだ王女が口許に強張った笑みを浮かべた。
「ラーナを寄越してもらえるの? 彼女、わたしに愛想を尽かしてない?」
「君の大事な侍女は主人の帰還を首を長くして待っているよ。判ってるでしょ」
 泣き笑いの表情が浮かぶ姉の涙を拭い、ヤウンは互いの白い額を突き合わせた。昔から泣いているアルティーエを励ますときにやっていることだった。
「手続きが済み次第、エスティラナを寄越すよ。だから、もう泣かないで。あんまり泣いてばかりいたんじゃ、僧院長が許可を出してくれないかもよ」
 王女の喉が唾を飲み込む。滲んでくる涙を必死に飲み込んでいるのだ。
 双子の弟の前では散々泣き続ける彼女だが、王女としての自覚は充分にあり、他の者の前で泣き顔を見せることなどあり得ない。たぶん、彼女の泣き顔を知っている者は片手の指で数えられるほどだ。
「もう、泣かないわ。人前では……絶対に」
 額を離し、ヤウンは姉の瞳を覗き込む。どうやらまた思い詰めているようだ。
「他人の前で泣かないのはいいけど、僕は別だからね。判ってる? 君が僕の前でだけ泣くように、僕だって君の前では弱音を散々吐いてるでしょ。僕にまで遠慮するようなことしたら許さないよ」
 唇を噛みしめ、俯こうとしたアルティーエの顎をヤウンは捉えた。眉間に皺を寄せ、彼はふくれっ面で姉に不満を漏らす。
「ちゃんと聞いてる? 僕に隠し事はなしだよ。いいね?」
 自分はアルティーエに隠し事をしようとしているのに。随分と偉そうなことを言う。いや、後ろめたさが尊大に振る舞わせているのだ。
 自分を見て返事をしろと呼びかけると、ギクシャクとした動きで視線を彷徨わせていた王女が、観念したようにヤウンへと視線を戻す。不承不承といった態度であったが、彼女は弟に今まで通りに接することを約束したのだった。
「じゃ、僕は王宮に戻るよ。エスティラナにも伝えてあげなくちゃね。きっと大喜びでここに来るよ。それまでの辛抱だから……待ってて」
 部屋の戸口まで見送りに立ったアルティーエを振り返り、ヤウンはそこで初めて自分が姉よりも背が高くなっていることに気づいた。
 十代半ば頃までは彼女のほうが背が高く、以前の彼ならひどく悔しがったというのに。あと数年で二十代で入る今、ほんのわずかながら自分が姉を上回った事実に動揺した。片割れとはいつまでも同じだと思っていたのに。
 短い挨拶を済ませ、ヤウンは僧院宿舎の長い廊下を足早に進んだ。
 心はいざ知らず、身体は確実に成長している。ずっと願っていたことではないか。その現実は本来なら喜ばしいことのはず。しかし、今のヤウンには双子の姉と隔てられた気がして、ひどく寂しく感じるのであった。