混沌と黎明の横顔

第01章:双面神の戯れ 3

 フォレイアは銅板鏡の中を覗き、髪を結い上げられていく自分の姿をぼんやりと眺めていた。忙しく手を動かす侍女たちはひばりのようにさえずり続け、あちらこちらの噂話を主人に吹聴するのに熱心である。
 だがしかし、フォレイア自身は噂話を楽しむ気分ではなかった。彼女らの他愛のない会話は貴族の動向を探るのに役立つこともある。それ故に今までは気にもかけず、むしろ喋るに任せていた。そのツケを今払わされているわけだ。
 黙っていて欲しいと言えば彼女たちは口をつぐむだろう。ところが、そういう主人の変化に敏感な召使いたちは、今度はフォレイアの異変を別の場所で面白おかしく話して回るのだ。弱っているところなど見せられなかった。
 父である炎姫公は新たに手許に置くことになったジャムシードの力量を見極めようと手ぐすね引いている。娘である自分を彼の補佐につけたのは、上流階級に強力なコネを持たない彼へのせめてもの温情であろう。
 ジャムシードは無言のうちに抵抗しているが、父は彼をジューン島の領主として育てるつもりだ。ならば、こちらもその腹づもりで父の意向に従わねば。そのためにジャムシードをタシュタン地藩の貴族に紹介しているのだから。
 けれども……。この全身を覆う倦怠感と焦燥感はなんだろう。もう何もかもを投げ出したいくらいだ。父の意に沿うようにと精一杯のことをやっているつもりだが、その成果は出ていない。せめてもの救いはジャムシードが考え出した政策がゆっくりとではあるが軌道に乗りつつあることだ。
「それにしても姫様。本当にあの人の言うようなことが可能ですの?」
「そうそう。わたくし、未だに信じられませんわ。下々のことなど放っておけばよろしいのよ。街にいる資格のない者を厚く遇するなど正気とは思えません」
 フォレイアは苦いものがこみ上げる喉元に力を入れ、唾を大きく飲み込んだ。ため息が出そうになるのを堪えるは最近では日常になっている。彼女たちは貴族であるが故に、ジャムシードの政策が理解できないのだった。
「我が地藩のためになることじゃ。そなたたちの実家もいずれはその恩恵に与ることになるやもしれぬ。口性のないことを言うものではない」
 そうかもしれませんけど、と口を尖らせ、娘たちは互いに目配せする。それを鏡の片隅で確認し、フォレイアは彼女らに判らぬよう、肩を落とした。直接的な利害のない貴族ですらこれである。工人を説得しに回っているジャムシードの気苦労はいかほどであろう。よくやっていると褒める父は正しいのだ。
 判ってはいるが妬ましさを感じずにはいられない。炎姫公自らが政策の経過を確認するくらいだ。人材が不足しているタシュタン地藩としては、ジャムシードが出した政策がそれを補う可能性に期待しているのは間違いない。
『街壁の外へ放逐されている者たちに仕事の機会を与えてください』
 隣のハスハー地藩でも似たような政策が水姫公自らの陣頭指揮により断行されつつあると聞いた。根本的な原因は違うにしろ、地藩の土台を強固なものにしようとする思いはどちらの地藩の者も同じはずだ。
『教育を受けられず貧しさの中で朽ちていく者も多い。彼らに職に就くだけの技術と読み書きを教えるのが第一です。そのための施設もいるでしょう』
 炎姫公からタシュタン地藩での自分の仕事を自ら作ってみよ、と命じられた後にジャムシードが進言した政策は、これまでにも僧院や官庁で何度か試み、とん挫したものである。誰もがまた失敗するのがオチだと思っていた。
『都市の商人や工人に不利益はありません。彼らは新しい奉公人や弟子を選べるし、仕事の担い手が増えれば産業が活性化することに繋がります』
 商人や工人の組合と衝突し、政策を推し進めるための資金を貴族や上流階級者から集めて回る。うんざりするような話し合いを何度も繰り返して、ようやく形になりそうだと確信が持てるようになったところだった。
『官庁が率先して行えば反発を招くと仰るのなら、民間から自主的に動くように働きかけます。特に商人は自らの利益になることには聡い。彼らが動けば貴族も神殿も重い腰を上げ、工人も同じく大勢に乗らざるを得ないでしょう』
 父に認められるだけの成果をジャムシードは上げつつある。それは喜ばしいことであるはずなのに、一緒に笑ってやる気力が湧いてこなかった。
 妬ましい。もう、他の感情が浮かんでこないほど、嫉妬と羨望の念が溢れ返っていた。なぜ父の賞賛が向けられるのがジャムシードなのだろう。名目だけの跡取り娘の存在は父の視界に入っていなかった。
 きつく髪を巻き上げられ、フォレイアは物思いから我に返った。鏡の中にいる女は人形のように固い表情をしてこちらを凝視している。なんという冷たい顔だろう。これは本当に血の通った人間だろうか。
 己の顔をまじまじと見つめ、フォレイアはこみ上げてきた嫌悪に眉を寄せた。
「姫様、この髪型はお気に召しませんでしたか? 作り直しましょうか?」
 自分たちの仕事の出来を心配する侍女たちに、彼女は鏡越しに微笑みかけた。
「これでよい。あとは髪飾りと耳対ウィーテを。……いつものもので」
 侍女の一人が宝石箱へと歩み寄り、残りの一人がドレスを着せかけてくる。茶会に出るときのいつもの支度となんら変わりのない光景だった。
 剣の稽古や乗馬をするフォレイアの身体は多くの貴族女性よりも締まってはいるが、より腰を細く、胸を大きく見せようと、ドレスの下に着用する下着は責め具のようにきつく絞られている。息をするのも一苦労だった。
 この下着だけは慣れることがないだろう。貴族の娘は成年する前から窮屈な衣装を身にまとっているのだが、姉の真似をして男装することが多かったフォレイアは女性物の衣装が苦手だった。今もそれは変わらない。
 蜂蜜酒ミードに似た淡い黄金色のドレスに幾本のも銀鎖を垂らし、肩が凝るほど重厚なマントを羽織ると、そこには大貴族の娘であることを疑いようもない高貴な姿が現れた。
 フォレイアは指先で後れ毛の乱れを直し、その延長線上にある耳元に触れる。ひんやりとした金属の感触の次に仄かに温い土の感触が伝わってきた。
 ガーベイ・ロッシュ工房であつらえた耳対は彼女がもっとも気に入っているものの一つである。炎姫家の特徴である朱茶けた瞳よりも鮮やかな炎を揺らめかす波炎石を練り込んだ七宝焼き風の飾りは、ややもすると青白く見えるフォレイアの肌に血の通った温かみを与えてくれる一品であった。
「姫様、用意が整いましたらお出ましを。炎姫公閣下がお待ちでございます」
 扉への道を開け、侍女たちは慇懃なほど丁寧に腰を折る。ところが、それを待ちかまえていたかのように扉が叩かれた。
 誰何の声を上げれば、先触れの者が姿を現し、これまた慇懃な礼をする。フォレイアは傲慢一歩手前の鷹揚な仕草で用件を尋ねた。
「どうしたのじゃ? 何か不都合でも起こったのか?」
「外の控えの間にてジノン卿がお待ちでございます。本日の晩餐の席はジノン卿とご一緒されるよう、炎姫公閣下からのご命令にございます」
「従兄殿がおいでになるのか。神都カルバでの仕事が一段落したようじゃな。久しぶりにハスハー地藩の話が聞けよう。付き添いは願ってもないことじゃ」
 炎姫公の甥がいると聞いて色めき立つ侍女を後目に、フォレイアは先触れの者に先導させ、控えの間へと歩を進めた。歩むごとに銀鎖が涼やかな音色を奏で、それが耳に心地よい。その音が一瞬途絶えた先に扉が現れた。
 滑らかな動きで開いた扉の向こう側は、今のフォレイアの気分からは華やかすぎるほど明るい光に満ちている。表面上は平静を装ってはいても、本当は楽しく騒ぐような気分ではないのだ。
 今夜、炎姫家主催の晩餐が催される予定でなければ……。いや、考えても詮無いことであるが、ジャムシードの仕事の手伝いをしていなければ、これほど気分が落ち込むこともなかったのではなかろうか。
 鬱々と益にならぬことを考えながら控えの間に足を踏み入れると、人影が素早く動き、フォレイアへと近寄ってきた。
「今日はまた一段と美しいではないか。伯父上が他の男に見せたがらぬのも納得できるぞ。我が従妹殿のご機嫌はいかがかな? 粗忽者が今日の同伴と聞いて機嫌を損ねてはいないだろうな?」
「ジノン卿が粗忽者ならわらわはどうしたら良いのであろうな。半人前の娘に呆れる父上の心労を重くするばかりになってしまう」
「まさか! 粗暴な奴だと故郷で失笑を買った男と目もくらむような美姫とを同列に語れと言うのか? それこそ愚の骨頂だろう」
 大袈裟に肩をすくめ、首を振るジノンを見上げて、フォレイアは微笑む。
 自然な仕草でこちらの手を取るジノンの態度は貴公子然としていた。故郷パラキスト王国でも同じように振る舞っていたのだろう。
 出奔して貴族の地位を捨てずとも良かったのでは? 内心ではそう思ったが、フォレイアはそれを口にすることなく、相手の追従を笑って聞き流した。
「そういえば、新しい政策が軌道に乗り始めているらしいな。噂では従妹殿も手を貸していると聞いたが。女の身で政治に関わるとは、よほどの才覚があるとみえる。その手腕を是非とも教授してもらいたいものだ」
 ジノンに促され、晩餐の席へ向かいながら互いの近況を話すうちに、いつしか話題はタシュタン地藩の現状に移っていった。今は触れてもらいたくない話であるが、ハスハー地藩から戻ったばかりのジノンにはこの地藩の現状を把握しておきたい思いがあるのだろう。
「妾など何の役にも立ってはおらぬよ。ジャムシードがよくやってくれておる。お陰で人材が整いつつあるのじゃ。父上も彼を褒めておいでであった」
「あの男が伯父上に褒められるのなら、従妹殿とてお褒めの言葉をちょうだいしてもおかしくはないだろうが。そう謙遜せずとも……」
 ジノンの反論にフォレイアが曖昧な笑みで応えると、彼はそれまでの快活な表情を一変させ、不機嫌そうに顔をしかめた。
「伯父上はいったい何を考えておいでなのやら。従妹殿、そなたはもっと自分の功績を誇っても良いと思うぞ。俺が言うのもおかしな話だが、パラキストにいた頃の俺が今の俺を見たら腰を抜かすだろう。それくらい今の俺は勤勉なのだ。ところが、その俺よりもそなたのほうが数倍は努力家なのは間違いない」
「そのようなことはなかろう。励ましの言葉はありがたいが、父上に認められぬのは妾の力不足によるところであって……」
「伯父上に比べたら誰もが力不足であろうよ。年季が違うのだから。従妹殿、いや、フォレイア。もっと己の力量を認めてやれ。今の仕事、そなたがいなければ成り立たなかったと言う者もいるのだぞ」
 そんな話は初めて聞いた。すげなくされた父の態度にばかり気が行っていたが、自分の仕事を評価してくれる者もいたことは驚きである。ジノンが当たり前のようにフォレイアの名を呼んだのにも気づかないほどだった。
 長い廊下を連れ立って歩くうち、フォレイアは奇妙な連帯感をジノンに抱いた。自分と同じ匂いがする、と言ったほうが的確だろうか。
「俺は伯父上に疎んじられているだろうが……」
「そのようなことはないはずじゃ。父上は身内を大切にされる。姉上の溺愛ぶりは姉上が亡くなった今でも語り草になるほどなのだし」
「そうではないさ、フォレイア。そなたも知っての通り、俺の母は伯父上の異母妹だ。母親同士の確執は根深く、伯父上と母との仲も良くはなかったと聞いている。母の同腹兄ササン・イッシュと伯父上は犬猿の仲だったのだぞ。彼を実の伯父に持つ俺など消えてなくなればいいと思われていても不思議はない」
 それまで闊達な口調だったジノンの声に湿り気が混じる。声音に差し込んだ影の暗さに、フォレイアは思わず相手の横顔を見上げた。
「そなたはユニティア姫よりも素直なのだな。相手の心根をまっすぐに評価しようとする美徳がある。だがな、世の中は清廉潔白な思いだけで渡っていけるものではないことも多いのだ。だから憶えておけ。伯父たちの不仲などはその最たるもの。炎姫公から見たら、俺が何をやっても気に入らないと思うぞ」
 その言葉を否定したかったが、ジノンの声の暗さにフォレイアは躊躇した。容易く反論するのは難しい。そう悟らずにはいられない重苦しさだった。
「あぁ、だからと言って、伯父上の態度に倣って俺たちが仲違いをする理由にはならぬからな。伯父上が亡き異母兄を憎んでいても、これまで通りにする。……少なくとも、俺はフォレイアと上手くやっていきたいと考えている」
 無論こちらに異存があるはずもない。素直に頷いたフォレイアの態度に安堵したのか、ジノンが屈託なく笑った。フォレイアもつられて微笑む。他愛ないやり取りだが、従兄妹同士という繋がりは思った以上に気安さを生んだ。
 フォレイアは従兄の腕に手を絡ませ、晩餐が開かれる大広間へと進む。次にジャムシードを紹介しようと目論んでいる貴族に渡りをつける意味でも、今夜は出席しないわけにはいかなかった。
 気乗りしない会食であったが、ジノンが一緒にいてくれるのなら気が紛れそうである。彼なら他の男たちのようにおべっかを使い、しつこくまとわりついてくることもなかろう。邪な念で近づいてくる者への牽制にもなるはずだ。
 ジノンはこちらを素直だと賞賛してくれたが、フォレイア自身はそうは思えない。従兄が晩餐に同伴してくれるという事実だけで、この催しの間に想定できることを計算している自分は素直と言うよりもあざといではないか。
 炎姫家とのつき合いが深くなれば、この従兄もフォレイアのことを素直だとは言わなくなるに違いない。強情で冷たい女だと思われる日が来るかもしれない。実際、役人の中には陰でそう誹っている者もいると聞いていた。
 炎姫公との折り合いが悪いと言うが、気難しいと言われる父とのつき合いが長くなれば、素っ気ない態度が普通なのだと判るはずだ。父が甥をどう思っているかは知らない。が、邪険に扱っているという噂は聞いていなかった。
 たとえ憎んでいた異母兄の血縁者であっても、父がそれだけを理由にジノンを退けるとは思えない。いや、思いたくないというのが正直なところだった。
「フォレイア。今度、手が空いたときでいいから一緒に行ってもらいたい場所があるんだが。どうだろう? つき合ってもらえるかな?」
「どこへ行きたいのじゃ? 妾で役に立てるならかまわぬが」
 故郷では武官の真似事もしたというジノンは、体格もがっしりして偉丈夫と呼ぶに相応しい堂々とした立ち姿である。隣を歩く従兄の横顔を見上げたフォレイアは、その彼が一瞬だけ口許に浮かべた寂しげな笑みを見逃さなかった。
「ササン・イッシュ伯父が眠っている墓所に詣でたいのだ。炎姫家縁の僧院墓地のどこに墓があるのか判らないのでな」
 フォレイアは眉間に皺を寄せ、一瞬考え込んだ。
 父の異母兄ササン・イッシュの墓を詣でたいと言う者は、今のタシュタンにはいないだろう。かの人物は謀反の疑いで出家させられ、炎姫家のいざこざに巻き込まれている最中に喧嘩が原因で殺害されてしまったのだから。
 大公家の禁忌と言ってもいい人物だ。かの人の墓の場所を教えるのはいいが、ジノンがあまり深く関わりすぎるのは芳しくない。
 だがしかし、彼の母親はササン・イッシュの実妹なのだ。血の濃さだけならアジル・ハイラーよりもササン・イッシュのほうが近しく思えるのだろう。
「伯父上の墓の場所、調べておこう。妾の手隙の時期となるともう少し調整が必要になると思うがかまわぬであろうか?」
「あぁ、急ぐわけではない。母上の死を報告するだけだ。血の繋がりのある俺くらいしか母の死を伯父に伝えることはできないだろうからな」
 ふとジノンの視線が虚空を泳ぎ、すぐにフォレイアへと引き戻された。
「助かった。感謝するぞ。伯父貴に訊ねるのは気が引けるし、他の者に聞いてあらぬ噂が立ったのでは目も当てられないからな」
「案内役くらい大したことをするわけではない。……そうじゃ。ハスハー地藩のほうでは神殿や僧院の墓所はどうなっておるのじゃ? 姉上が眠る霊廟も焼け落ちてしまって、思い出すだけでも胸が痛む」
 顎に手をかけ、ジノンが首を傾げる。本人は真面目に考え込んでいるのであろうが、その仕草は子どもが拗ねているときのように幼さを感じさせた。
「今は街の建設が急務で墓所の整備どころではなかろう。石も残らぬほどの業火に街が焼かれたのだろう? 生きている者の生活が最優先だ。俺が船で持ち込んだ木材もあっという間に使い果たしたほどだからな」
「そうか……。そうじゃな。死者を悼む気持ちはあれど、生きている者の保護が最優先であろう。姉上の霊廟に花を手向けられるのはまだ先じゃな」
 フォレイアの手が温かなものに包まれる。我に返った彼女は、男の大きな手に包まれる自分の手を見て困惑した。ジノンが腰を屈め、耳打ちする。
「俺はフォレイアのその義理堅いところも好きだな。ユニティア姫の墓所に詣でるときは俺も一緒に行くとしよう。かまわぬだろう?」
 驚き、身を引く公女の手の甲が緩やかに撫でられた。弾かれたように顔を上げると、そこには予想外に強い視線があり、彼女をじっと見つめていた。
「そなたに好きな男がいるのは知っている。それでも、俺はフォレイアを一人の女として好いているぞ。そなたは気づいてなかっただろうがな」
 フォレイアは鋭く息を飲む。大きく見開いた瞳に映る男の顔は真剣だった。
 迂闊であった。炎姫家の直系である立場から、下手な噂が立っては困ると、今までは男を寄せつけないようにしてきたのに。従兄という気安さから油断した。ジノンがこの場でこれ以上迫ってきたらどうしたものか。
 フォレイアの強張った表情を見つめていたジノンが微苦笑を浮かべた。
「そうあからさまに厭がられると傷つくぞ。笑ってかわすか、たしなめてくれ」
「それは……。妾は別に厭がっているわけではなく……」
 フォレイアは腕を引かれて歩いたが、居たたまれなさに俯いたままだった。
 いずれ父が認めた男を夫に迎えることになるのだと言い聞かせ、それ以外の異性は近づけないよう気をつけていたのに。なんということだろう。うっかりと従兄に気を許して相手に余計な期待を抱かせてしまったとは。
 押し黙った彼女の固い気配に困惑したのか、ジノンの歩みが止まった。
「困らせたのなら謝る。そなたが伴侶を自ら選べぬ立場であることも、他に思いを寄せる男がいることも判った上で気持ちを伝えたのは、そなたにもっと自信を持ってもらいたかったのだ。好いた相手には笑ってもらいたいからな」
 ジノンは項垂れた公女の顎を持ち上げ、気遣わしげに瞳の奥を覗き込む。がしかし、動揺するフォレイアの視線は彷徨い続けた。
「炎姫公にも、そなたが好いている男にも、ほとほと腹が立つよ。なぜそなたにこうもつれなくするのだろうな。俺なら寂しい思いなどさせぬのに。いっそラシュ・ナムル公がやったようにそなたを奪って逃げようか?」
 フォレイアは返事をする余裕もなく顔を歪めている。そんな彼女の手を取り、ジノンが細い指先に口吻を落とした。そのまま手を握り、柔らかな掌に頬ずりする。そして、彼は力無く首を振りながら吐息を漏らした。
「戯れ言が過ぎた。許してくれ。炎姫家のしがらみがついて回るそなたに言うべきことではなかったな。……やはり俺は粗忽者だ」
 再び行く手を促され、フォレイアはぎこちなく歩き出す。隣の男の気配は先ほどより沈んでいるようだったが、不機嫌さは感じ取れなかった。
 何を言えば良いのか。好いてくれてありがとうとも、迷惑だとも、どちらも本意の言葉とはいえない。ただただ、フォレイアは成り行きに困惑していた。