混沌と黎明の横顔

第01章:双面神の戯れ 2

 指先から肩までが一気に痺れる強い衝撃が両腕に走った。目の前で交わる刃はきっとギリギリと音を立てているだろう。その向こう側からこちらを睨む鉄灰色の瞳に、一瞬だけ驚きが走ったことにジャムシードは気づいていた。
 視界の中で刀身同士が滑り始める。握った柄から伝わる刃の振動から、相手が白刃を払いのけざまに斬り込んでくるだろうことが予想できた。
 刀身の根本近くまで滑った相手の剣を受け止め続けるのは厳しい。下手な動かし方をしたら、鋼を仕込んだ刀身とはいえ折られてしまう。相手が押し流す力に逆らわず、ジャムシードは剣を引いて飛びすさった。
 再び剣で組み合うべく切っ先を持ち上げて構え直すと、相手は臨戦態勢を解いて手招きしている。打ち合いはこれからだろうに思わぬ肩すかしだった。
「アイレン? どうしたって言うんだ? 何かまずいことをしたか?」
 剣を鞘に収めながらジャムシードは大柄な女戦士に歩み寄った。彼の視線の先でアイレンが彼の耳元を指し示す。耳栓を外せと言っているらしい。ジャムシードは素直に従い、蜜蝋で作った耳栓を外しにかかった。
 アイレンとの稽古は順調である。旅の途中で最初の無言行を終えていたし、続いての無明行も無事終えた。今の無音行にも慣れてきたところである。
 ただ、この蜜蝋の耳栓が面倒である。特別な蜜蝋は粘度が高く、耳栓にするにはちょうど良かった。がしかし、それが災いして耳栓を外しても滓が残ってしまう。後から耳を掃除しないと、むず痒く感じて仕方がなかった。
 耳栓を苦労して外した途端、遮断されていた音が鼓膜を打ち鳴らす。アイレンが借り受けた稽古場の外側では他の者が稽古をしているのだ。彼らが打ち合わす刃の金属音や雄叫びがうるさいほど響く。
「どうやら無音状態での気配の読み方を憶えたようだな。もう無音行も終わらせて良い頃合いだ。貴様が望むなら最後の稽古に入るとするが?」
 突然の稽古の区切りに面食らったが、この潔さがいかにもアイレンらしく、つい苦笑が漏れた。無明行を終わらせたときもあっさりしていた。労いの言葉ひとつなく、簡単に終わりだと告げただけで次の無音行に移ったのだ。
「次の稽古ってのはどういう条件? 聞いてから決めてもいいんだったよな?」
「ああ。まずは説明しようか。この稽古を受けた者は未だにいないからな」
 そういえば先の黒耀樹公ワイト・ダイスもウラッツェも断ったと聞いている。果たしてどれほど面倒で厭な稽古が待っているのだろうか。
 ジャムシードはアイレンから語られる内容を覚悟し、奥歯を噛み締めた。
「これから行う三無行は今までやった三つの稽古を同時に行うのが基本だ。それに加え、段階を負うごとに身体の自由を奪っての戦い方を拾得する」
 そこまで話すと、アイレンは言葉を区切ってこちらの様子を伺う。理解した印に頷くと、彼女は再び口を開いて話し始めた。
「この稽古では声を封じたり、目を覆い隠したり、耳を塞いだりするのに道具は用いない。……東方の秘術によって一時的にすべての機能を奪うのだ」
「秘術って……どうやって? まさか、呪術とかなのか?」
 アイレンが小さな笑い声を漏らす。彼女の予想通りの反応だったのだろう。ジャムシードはふてくされ、口をとがらせた。
「そうむくれるな。まずは簡単なものを見せてやろう」
 涼しげな顔をしてアイレンはジャムシードの肩口を掴む。何をする気かと問う間もなく鋭い痛みが右腕に走り、そのまま痺れた感覚が腕を覆った。
「右腕を動かせるか? ……あぁ、無理をするな。経穴と呼ばれる場所を刺激したから、そう簡単には動かせないはずだ。別の経穴を刺激すれば声を出せなくしたり、耳が聞こえなくできたりする、というわけだ」
 痺れた右腕はしっかりと剣を掴んでいる。がしかし、その剣を持っている感覚がまるでなかった。左手で右腕を撫でてみたが、腕には触られた感覚がない。こんな一瞬のことで、腕が使い物にならなくなるとは……。
「感心しているところを悪いが、実は困ったこともある。簡単そうに見えるかもしれんが、これは非常に微妙な作業だ。僅かでも突く場所が違うと効果が出ない。つまり元に戻すときも慎重に作業しなければならないのだが……」
 アイレンはジャムシードの背後に回ると首筋の後ろ側に指を当て、めり込むほど強く押しつけた。つんのめりそうになったがジャムシードはそれに耐えた。
「もう右手は動くだろう? 痺れひとつ残っていないはずだが」
 言われた通り、あっという間に右腕の感覚が戻ってきた。剣を握る掌の感触も撫でさすっている左手の感覚もある。
「すごいな。こんな技があるなんて初めて知ったよ。誰に教えて貰ったんだ?」
「炎姫公だ。公は武道家の我が祖父から教えを受けている。つまり、このポラスニアで経穴が突けるのは二人だけということになるのだが、判っているか?」
 相手の真意が判らず、ジャムシードは首を振って判らないと答えた。
「稽古中に貴様が私を殺すような事態が起きた場合、貴様を元には戻せないということなのだが。本当に判っていないのか?」
「え……? いや、殺すかどうかはともかく、炎姫公もご存じなんだろ? それなら元に戻す方法はあるじゃないか」
 しごくもっともなジャムシードの返答にアイレンは力無く笑う。彼女にしては気弱な様子に、ジャムシードは首を傾げざるを得なかった。
「残念ながら、この稽古に関しては炎姫公が手出しされることはない。よって、貴様の視覚、聴覚、言語を封じたからには、相手を殺すことなく、また重傷を負わせることなく、勝ちを収めるか引き分けに持ち込めなければ、貴様が負ける以外に稽古を終わらせることはないと思え」
 サァッと自分の全身から血の気が引いていくのが判る。ワイト・ダイスとウラッツェが最終的に稽古を断ったのはこのせいか。
 ただでさえ視覚などの感覚が奪われるというのに、経穴とかいうのを突き損じたり、アイレンに大怪我をさせたりしたら元には戻れないというのだから穏やかではない。しかもアイレンの先ほどの話では、視力や聴力、発声を封じられるだけではなく、別の感覚も順番に封じられるというではないか。
 そんな圧倒的に不利な状態でアイレンと対等に戦うだけでも不可能に近いのに、彼女に怪我を負わせないよう気を使うことなど出来るだろうか。
 アイレンと眼があったが、ジャムシードは即座に返事をすることが出来ず、オロオロと視線をさまよわせた。
「即答は期待していない。ダイスやウラッツェも散々迷った挙げ句に断ってきた。貴様も葛藤を繰り返すだろう。それも稽古のうちだ。今日はこれで終わるから、剣は兵舎に戻しておけ。香油で手足の凝りもほぐしておくように」
 こちらの反応は予想通りだったのだろう。アイレンは平然としている。歩み去る後ろ姿を見つめ、唖然と立ち尽くした。が、彼女を見送るだけでは納得できる返事はできそうもないと気づき、慌ててその背を追いかけたのだった。
 囲いを出たところで相手に追いつき、ジャムシードは稽古をしている他の騎士たちを避けながら、まだ落ち着かない内心を隠して声をかけた。
「アイレン。炎姫公の稽古を受けたのはあんた一人だったのか? 他には誰も成し遂げなかったわけか?」
「いや。私だけではない。最後まで稽古をやり遂げた者はもう一人いる」
 矛盾している。もう一人いるのなら、炎姫公が稽古に手出ししなくても、その人物に経穴を突いてもらえるではないか。そう思ったのが伝わったらしく、アイレンはこちらを一瞥した後、素っ気なくひとつの事実を告げた。
「その人物は亡くなっている。貴様の役には立ってくれぬな」
 ジャムシードは小さくため息をつき、当たり前の疑問を口にした。
「どうして炎姫公は稽古に手出ししないんだ? 公もご自身で稽古をしたんだろう? 忘れたってわけでもないのに……」
「この稽古自体が炎姫公から私への試練だからだ。私が貴様に稽古を通じて何を教えているか理解できるか? むやみに他人を傷つけるかもしれないと考える貴様の葛藤は、裏返せば私は傷つくかもしれない覚悟をする葛藤と同じだ。不測の事態を受け入れる覚悟ができるかどうかだよ、ジャムシード」
 教える者も教わる者も試されているというわけだ。この稽古を初めに考えた人物の意地の悪さに呆れてしまう。だが、物を教えるというのは、もしかしたら本来はこういう真剣勝負なのかもしれない。
「判った。よく考えてから返事をするよ」
 そうしてくれ、と変わらず淡々とした受け答えがアイレンから返ってきた。彼女も炎姫公から試練を受けているわけだが、そんな重圧などとうに乗り越えたのではないかと思えるほど平静を保っている。
 今だってそうだ。稽古場に散らばる騎士たちがチラチラと視線を投げてくるが、その視線が矢であったならジャムシードやアイレンは矢衾やぶすまであろう。それほど周囲から向けられる視線は痛かったが彼女は平然としていた。
「ところで、炎姫公のところでの仕事ははかどっているのか?」
 こうして並んで歩いている間、二人は積極的に会話を交わすことは少ない。しかし今日に限って言えば、珍しくアイレンの口数が多かった。
「まぁ、割と順調なんじゃないかな。どんどん押し進めていけるとは思っていかなったけど、公女様のお陰で思ったよりは抵抗が少ないし」
「フォレイア姫ご自身で貴様の手伝いをしておいでになるのか?」
「神殿や僧院だけではなく、上流階級者への口利きをしてもらっているんだ。その辺りは俺ひとりじゃどうにもならないから。俺がやってるのは工人仲間の説得が主なところだよ。それも彼女がいてくれるから随分と助かってる」
 ふと隣を見れば、アイレンの横顔は会話をしていながら遙か遠くを見ていた。
「あの方は仕事がよくできるからな。バカな役人どもは女の仕事を評価しないようだが、見ている者はよく見ているはずだ。貴様がまともな評価を下せる人間で良かった。そうでなければフォレイア姫が救われん」
 同性だから点が甘いのだろうか、アイレンにしては手放しの褒めようである。いや、本当のことなのだから邪推する必要もない。
 確かに炎姫公女の仕事ぶりは手堅く卒がなかった。物品の手配をさせれば瞬く間にすべてを取り揃えるし、人と逢う手筈を頼めばこちらには絶妙の機会で相手を紹介してもらえる。しかも相手が断りにくい場面でだ。
 そのために出たくもない酒宴に引っぱり出されたり、脂粉まみれの貴婦人方の茶会に出かけたりすることも多かったが、ヘマをしそうになると巧みに話題を変えたり、間に入って視界を遮ったりと、実に上手く後を補ってくれる。
 目に見える形での仕事ではないので気づかない者もいるだろうが、何度も救われている身としては頭が上がりそうもなかった。
「あれだけ良くしてもらっておいて邪険に扱うわけないだろ。だけど、炎姫公はそうではないみたいだな。報告のときに彼女の手柄を進言してもまるで聞き入れてもらえない。実の娘なのに、どういう扱いをしてるんだか……」
「公のお考えは私にも判らん。昔からフォレイア姫と向き合われないのでな。姉のユニティア姫への溺愛ぶりは有名だったが、同じ娘なのになぜこうも扱いに差をつけるのか理解に苦しむ」
 同感だ。評価されてもいいフォレイアの働きは、炎姫公にかかると王族ならできて当然のことだと一蹴されてしまうのである。
 その通りな部分もあるだろう。しかし、彼女の働きぶりをきちんと見ているのだという素振りすらないのが気がかりだった。炎姫公への報告後は公女の落胆ぶりがひどく、慰めの言葉も思い浮かばない。
「アイレンは古馴染みなんだろう? だったら、たまには声をかけてくれよ。気が晴れるだろうし。俺じゃ公女様の慰めにはならないよ」
「いや……。私は声をかけないほうがいい。下手にあの方に話しかけると、私のとばっちりを喰う。貴様が側にいてくれたほうが安心だ」
 そんなことはなかろう。本当に彼女が慰めて欲しい相手は遠い聖都ウクルタムにいる。むしろ一緒にいることで苦痛を与えているかもしれない。炎姫公へ仕事の進行具合を報告をすればするほど公女は気鬱になっていた。
 ふと、こちらを見つめるアイレンと眼が合った。何か言いあぐねている気配が伝わってくる。彼女にしては珍しい逡巡ぶりだった。
「何かあるのか? あんたにしては珍しいじゃないか」
 知らぬふりをするほど薄情ではないつもりである。ジャムシードは相手が話の流れを向けやすいよう促したつもりだった。しかし、それが逆効果だったようである。本当に珍しいことに、アイレンが眉間に皺を寄せ首を振った。
「いや、今は時期ではないようだ。それにここは他人の耳目が多すぎる」
 兵舎に辿り着いた。稽古用の剣を片づけなければならないジャムシードは入り口に手をかけたが、何か言わなければならない気がして連れを振り返った。
「アイレン。俺で役に立つことなら言ってくれよ。……あんたには恩がある」
「恩と感じるかどうかは貴様の問題だ。私は私のやりたいようにやっている。貴様が剣術の稽古に義理や恩を感じるのは、私には不本意なことだぞ」
「それでもだよ。この数ヶ月で俺も多少は成長しただろ?」
 アイレンが口角を持ち上げる。嘲笑っているようにも、からかっているようにも見える、なんとも形容しがたい笑みであった。
「自分で成長したなどと口にしているうちはまだヒヨッコだよ、若造め」
「細工の師匠にも同じようなことを言われたよ。自分で一人前になったなんて吹聴する輩は三流だとさ」
 兵舎の扉を開けながらジャムシードは笑みを返す。が、すぐに表情を引き締めると、今までの会話より一段と声を落として話し始めた。
「これから時間はあるか? もう少し聞いておきたいことがあるんだけど」
「私を口説き落とそうというのならお断りだが? あるいは炎姫公のコネを引きだそうと考えているのなら、無駄だからやめておけと忠告するぞ」
「どっちも命知らずな奴がやりそうなことだけど、俺は間に合ってる」
「存外に失礼な輩だな、貴様。これでも物珍しさで近寄ってくる男くらいはいるのだぞ。コネ欲しさの下司な輩も多いがな」
 こんな軽口を叩けるのも稽古のお陰だろう。先の戦の間にまとっていた緊張感が、今は穏やかな信頼へと変化していた。ジャムシードは冗談の応酬をしながら夕食の約束を取り付けると、ひとり兵舎の武器庫へ向かった。
「それじゃあ、後で海鳥亭タークターンの前で」
 背を向けていたジャムシードは知らない。兵舎の外に佇むアイレンが彼を見送った後、振り返った先にあるものを悲しげに凝視していたことを。