黒竜街道物語
第十四話:ビデオショップ
 人づてに聞いた噂話だけでここまでやってきてしまった。ただの好奇心、面白半分の話のネタにしようと。
「──宵星亭。間違いない」
 雨上がりのせいでアスファルトの路面はてらてらと光り、あちこちに散らばるゴミが波打ち際にうち寄せられる漂泊物のように転がる。この近代的な都市のスラム街にあるうらぶれた酒場は、古ぼけた看板と扉で俺を出迎えた。
 今どき珍しい木製の扉を押し開けて店内に入ると、そこは意外と重厚な造りが広がっていた。明るすぎず暗すぎず、適度な明かりの下で酒を酌み交わす男たちはそれぞれの世界に没入しており、他人には無関心そうだ。
 ぐるりと店内を見回し、カウンターへと目を向けた俺にバーテンの「いらっしゃいませ」という静かな声がかかった。カウンター奥に佇むバーテンはまだ年若く、燃えるような赤い髪に白い肌をしている。これも噂通りだ。
 俺はなにげない足取りでカウンターの一番端の椅子へと向かい、ブルームーンを頼んだ。
 その注文を受けるバーテンと一瞬だけ視線が交わり、俺は彼の瞳が薄青い氷のように澄んだ色をしていることを知った。炎の髪に氷の瞳、対極にあるはずの色彩が、目の前の若いバーテンにはよく似合った。
 俺は注文したカクテルが出てくるまで、ぼんやりとした表情を装って辺りを見渡した。どんな木材が使われているのか判らないが、この宵星亭内部は外見のボロさとは反対の堅牢な造りだった。
 紫煙が立ちこめ、ビールやウィスキーの匂いが充満する店内は大都市の各所にある他の酒場となんら変わらない。聞いた噂通りの外観にバーテンの容姿だが、今ひとつ納得できなかった。場末の酒場とは思えない。
 俺はふと視線を横に滑らせた。カウンターの中ほどに一人の老紳士が座り、カクテルを作るバーテンに話しかけている。店の客層は荒くれ者が多いが、この紳士だけは場違いなほどの上客だった。もしかしたら、この酒場は知る人ぞ知る穴場なのだろうか。
 ほどなくして、バーテンが注文したブルームーンを目の前に置いていった。慇懃な態度の彼に頷き返し、俺はカクテルを一口だけ口に含む。レモンの香りが鼻腔に広がり、舌の上に酸味が満ちた。
 鮮烈な果実の香りに脳の芯がふわりと解きほぐされ、力が入っていた肩から緊張が抜ける。ここは落ち着く空間だった。
 ゆっくりとカクテルを飲み干すと、俺はバーテンに向かってそっと手を挙げた。
「美味かったよ。……このお代はいくらだい?」
 バーテンの言う金額を支払い、僅かばかりのチップを置いたときだった。
「店を出て西へ行けば元の世界。東へ行けば黒竜街道です。ビデオショップの裏庭で、絵描きがお待ちしています」
 解れていた緊張が一気に戻ってきた。聞いてきた噂などどうでもよくなってきていた矢先の言葉に、俺はバーテンの顔をマジマジと見つめる。が、彼は何ごともなかったような態度で老紳士の側に戻っていってしまった。
 俺はバーテンの囁き声を頭の中で何度も繰り返し、店から一歩を踏み出した。
 西へ行けば元の世界、東へ行けば黒竜街道……? ビデオショップとはどのビデオショップのことだろうか? それに、この大都市で裏庭を抱えているような店舗などあるだろうか?
 渦巻く疑問を呑み込み、俺は左手の道路へと足を踏み出した。そう、それこそスラム街の東側、ブラックホースタウンへと伸びる道だった。


 貧民がごろついているはずの場所に、ビデオショップなどあるはずがなかろう。そんな場所で開店していても、来るのは強盗だけである。
 俺はどんどん寂れていく周囲の様子に、少なからず怯えていた。ブラックホースタウンに足を踏み入れて、無事に戻ってくることができるだろうか。いや、命を落とすことだってあり得そうだった。
 宵星亭から道なりに進んできたアスファルト道路は、ときに曲がり、ときに高架下をくぐり、ときに廃ビルを螺旋に駆け上がった。夜はさらに更け、西に傾いた月が俺の背中を照らし続ける。
 永遠に目的地になど辿り着けないような気がした。いや、目的地があるのかどうかも怪しい。
 雨に濡れた路面を見つめながら歩き続ける俺の横顔を、突然、鮮やかな照明が照らした。今まで月明かりだけの薄暗さだったせいで、強烈なサーチライトでも浴びせられたような気分になる。
 何度も瞼を上下させ、俺は光の正体を確認しようとした。
「……ビデオショップ・ドラクーン?」
 光に馴染んだ眼で浮き上がっている文字を読みとり、俺は唖然とした。
 通りの向こうから歩いてきたときには、前方に明かりなどなかった。俺が真横を通り過ぎることを見計らったように店舗の照明が入ったのだ。あるいは通り過ぎてしまう俺を呼び止めでもするかのように。
 俺は恐る恐る店の前へと歩み寄った。一面、頑丈なコンクリート壁で囲まれているビデオショップの店舗前面に丸い曇ったガラス窓がある。そこだけ切り取ったかのような不自然な窓だった。店内へと導き入れるドアすらないとは、いったいどういうビデオショップだろうか。
 店の名前が入ったネオン照明が、薄汚れ、落書きだらけの壁に穿たれた嵌め殺しのガラスをどんよりと輝かせている。まるで春先の沼のように澱んだ色をしたガラス窓だった。
 しかし、そこから漏れてくる店内の明かりはなかった。暗くネオンの光を反射する窓は不気味な沈黙を守ったままだ。俺は店内が見えないものかと窓から中を覗き込んだ。
 ネオンの動きに従い、窓ガラスは鈍い光を放ち続けるが、そこは真っ暗な闇を映し出すばかりで、他には何も見つけることができなかった。
 ここがバーテンの言っていたビデオショップだとしたら、この裏庭に絵描きがいるらしいのだが、店舗の両側は廃ビルが隙間なく建てられており、背後に回る裏道がどこにあるのかさっぱり判らない。店が開いていれば店員に聞くこともできるだろうが、この状態では他の者に聞くこともできなかった。
 場所は見つけたのだ。改めて出直してこようと、俺は窓から一歩離れた。
 と、そのとき。丸い嵌め殺しの縁に小さな白い手がかけられた。子どもの手が窓枠にしがみつき、その手を支点にするようにして、クシャクシャに縮れた焦げ茶の髪が現れた。
 俺はその窓から眼を反らすことができず、髪の毛の次に現れた黒い瞳と視線を絡めるしかなかった。ネオン照明に照らされたその姿は、十にもならないような子どものものだった。
「黒竜街道のお客さんだね?」
 悪戯げな声が窓の向こうから聞こえてきた。ガラス越しであるにも関わらず、その声は俺の耳にしっかりと届く。
 俺は返事のための声を出すこともできずに、ただコクコクと頷き返した。喉の奥が貼りついたようで、息さえできない気がしていた。
「ここのこと、どこで聞いてきたの?」
 更なる問いかけで、俺の喉はようやく本来の役割を思い出したようだった。
 乾いた喉を潤すように、俺は大きく唾を呑み込んだあと、歓楽街の酒場で知り合った男から聞いた噂話によって、まず宵星亭を見つけ、そこでこの場所を聞いたことを話した。
 そして、裏庭へはどう行けばいいのかと、目の前の子どもに訊ねたのだが、幼い少年はそばかすの浮いた顔でニタリと笑うだけで、俺に答えを返すことはなかった。
「つまり、あんたは最高の夢を買いに来たわけだね?」
「……そうだ。宵星亭で案内された場所はこの世で最高の夢を売っていると聞いた。ここに絵描きはいるか? いるんだったら逢わせてくれ」
「おいらがその絵描きさ。いいよ、あんたに夢を売ってやろう」
 俺は頭に血が昇るのを感じた。子どもの絵描きだと!? しかも、その子どもが夢を売っているだと!? ふざけているのか!
 俺は喉元までこみ上げてきた罵声で身体が破裂しそうだった。が、絵描きだと名乗る子どもが一枚のディスクテープを取り出したのを見て、なんとか怒りの言葉を呑み込んだ。
 片手にディスクを持った少年は、残った片手に数本のクレヨンを握りしめ、指先の動きだけで器用に絵を描いていたのだ。確かに、この子どもが絵描きなのだろう。売っているという夢がどういうものかは判らないが。
「夢とか言って、ろくでもないディスクを法外な値段で売りつける気か?」
「この夢の支払いは金じゃないよ」
「それじゃ、俺の身体だとか命ってわけかよ。お前みたいな子どもを使った商売なんて怪しいもんだな」
「このディスクの価値は使った本人が決めるんだ。おいらはそれを渡すだけ」
 価値を決めるのが受け取った本人だというのなら、ただでもいいわけだ。俺は無駄金を使わずにすむことに気をよくし、くれるというのならもらってやろうと思い直した。
 半ば面白半分でやってきたのだ。懐が痛まないのならいいじゃないか。
 クレヨンを蠢かせていた少年の指が止まり、描いたものを確認するようにじっとディスクを見下ろす。その黒い瞳だけ見れば、彼は確かに絵描きの顔をしていた。自分の作品に評価を下す眼だ。
「出来たよ。持っていきな」
 描いた作品の出来に満足したのか、少年は俺を手招きした。窓から手渡そうというのだろう。
 俺は開かないはずの窓に近づいていった。防犯用に一見すると嵌め殺しになっているように見えるだけで、この窓は開くに違いない。
 ところが俺の目の前で少年の指がディスクを窓に押しつけた。
「おい、ちょっと待てよ。そんなことしたらディスクが壊れ……」
 俺は愕然とガラス窓を見つめた。固いガラスからディスクが突き出している。どこにも隙間などないはずなのに!
 ネオン照明に照らされるガラスには隙間やひび割れなどどこにもない。まるで水面からディスクが顔を出しているように、ガラスの表面にディスクテープのケースが浮き上がっていた。
「なんだよ、これ……」
「あんたにしか使えない夢だよ。ちゃんと受け取りな」
 少年の悪戯げな声が響くと、今まで澱んだ光を放っていたネオンが突如として消えた。光に馴れた眼が暗闇になれるまで、俺はじっとその場に佇んでいた。
 闇に眼が馴れ、俺は手に硬い感触を憶えて手許を見下ろした。
 そこには先ほどのディスクが握られており、淡い月明かりの下でもハッキリと判る色彩で、ディスクの表面に俺の顔が描かれていた。まるで写真でも貼りつけたかのような精巧な絵の中の俺は、無表情なままこちらを見つめている。
 薄気味悪さにディスクを捨てようかとも思ったが、描かれた絵に睨みつけられ、俺はそれを懐にしまい込んだ。このまま捨てたらとんでもないことが起こりそうな気がする。
 俺は元来た道を戻ろうときびすを返し、アスファルト道路を歩き始めた。が、すぐに足を止めて、ビデオショップを振り返った。もしかしたら嵌め殺しの窓から、例の絵描きの少年がこちらを見ていはしないかと思いながら。
 しかし、月明かりに照らされた俺の背後には、幾つもの廃ビルが起立し、ビデオショップがあったと思しき場所には、今にもコンクリートが崩れ落ちそうなボロボロの店舗があるだけだった。

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