黒竜街道物語
第十三話:深夜番組
 暗闇の中でテレビがうるさくがなり立てている。
 私は興味もないのにテレビの電源を切れずにいた。静けさに耐えられないから。一人は寂しいから。
 ボゥッと見つめているだけ。深夜のバラエティ番組はちっとも頭に入ってこない。つまらない。……でも、電源を落とせない。
 明日も大学の講義があるのに眠りたくない。心の奥底がざわざわしていて、ちっとも眠気が訪れない。
 私には、そんな夜がたまにあった。
 特に月がきれいな晩などは、眠るのが惜しくなってしまう。黒猫が月夜の晩に踊りだしたくなるのと同じように、狂ったように月光を浴びていたくなる。
 しかし、今夜少しも私に眠りが訪れないのは月のせいばかりではない。もどかしいほどの焦燥感、いや、喪失感が胸の中をいっぱいに満たしていた。ジリジリと胸を焼くこの感覚が収まる気配はない。
 ふと、首筋に視線の熱を感じ、キョロキョロと辺りを見回した。けど、そんなのは気のせいに決まっている。この部屋に私以外の人間などいないのだから。
 テレビ画面から逸らされた視線が、床に伸びる光の帯を見つけた。
 カーテンを閉めていない窓から月明かりが入り込んでいた。青白い月の光は、部屋の中を深海のような色に染め上げている。私はさしずめ水底でうずくまる貝のような存在だろうか。
 夜も随分と更けてきて、月も西の空に傾いでいるのだろう。長く伸びた月光の帯は、私が今まで眺めていたテレビの画面に届きそうなほど長く横たわっていた。
「寂しい……。私、独りぼっち」
 大学に入学すると同時に始めた一人暮らしは、初めこそ大変だったけど四年目ともなれば馴れたもので、今はとても充実していた。
 割合に裕福な実家から充分な援助をもらっていることもあり、無理なバイトを入れる必要もなく、講義とバイトとの兼ね合いであくせくしている同級生から羨ましがられるほどだった。
 就職先も内定して、将来に不安などどこにもない……はずだ。
 独りぼっちだと感じるのなら、友人の家に転がり込むなり、実家でまったりするなり、それなりの過ごし方があるはずなのに。
 私は一人が寂しいと感じながら、賑やかな他人とのお喋りを疎んじていた。今夜は自分の中に友人や両親と過ごす余裕はなさそうだ。寂しくても一人でいたい気分だった。
 相変わらずテレビの画面の向こう側では売り出し中のコメディアンたちがドタバタと暴れ、雄叫びをあげている。泥水の中にダイビングしてゲラゲラと笑うその姿はあまりにも滑稽で、私は余計に侘びしい気分になった。
 月の光帯はどんどんと長くなっていく。深夜番組はバラエティが終わり、何回目か判らないくらい繰り返された昔懐かしいドラマが放映され始めていた。子どもの頃に両親と一緒に夕食時に見ていたものだった憶えがある。
『戻っておいで。君の場所は僕の隣り……』
 画面の中の人物の動きをぼんやりと目で追い、遠い記憶の底にあった登場人物たちの台詞をダラダラと聞き続けた。
『帰ろう。僕たちの場所へ』
 当時は人気急上昇中だったアイドルが、目の前の画面の中で甘い微笑みを浮かべて手を差し伸べてくる。
 その蕩ける笑顔に吐き気を憶え、私は勢いよく立ち上がってキッチンへと向かった。無性に苦いコーヒーが飲みたくなった。こんな夜中に大量のカフェインを摂取したら余計に眠れなくなるだろうに。
 インスタントドリップでコーヒーを淹れて、その熱い液体をすすりながらテレビの前に戻った私は、そのままソファベッドの前で足を止めた。
「消えてますわ」
 あえて口にして確認するまでもない。クライマックス近かったはずの深夜番組のドラマは画面から消え、砂嵐のような白黒画面が耳障りなノイズを小さく吐き出していた。
「まぁ、壊れてしまいましたの? 困りましたわね」
 私はブツブツと不平をもらしてみるが、実際にはそれほどがっかりしていなかった。テレビが壊れたことを言い訳に、これでようやくベッドに入ることができる。淹れたばかりのコーヒーなどもう飲む気も失せていた。
 月光がテレビの画面を照らし、その反射光が、ただでさえ暗い室内の壁を薄気味悪い光で満たす。壁を照らす光の粒子は目に浸みた。
 テレビに近寄り、電源を落とそうとしたときだった。砂嵐の画面に妙な影が浮かび、ノイズの中から声が聞こえてきた。
『──ツキコ』
 私は電源ボタンに伸ばした指先を固め、じっと画面に見入ってしまった。私の名を呼ぶ声は、ふとした折に思い出す懐かしい人の声だった。
 じんわりと画面に浮かび上がる影が輪郭を明瞭なものへと変化させた。
 真っ先に目に飛び込んできたのは、驚くほど豊かな黒髪。私も黒髪は自慢だが、この人の髪は闇を凝り固めたように黒々としていて、光という光をすべて呑み込んでしまいそうなのだ。
 そして、その黒い蓬髪《ほうはつ》の間から覗く赤光の瞳。最上級の紅玉石《ルビー》でも、これほど赤くはあるまい。血色をした瞳はこちらの心を射すくめるほど鋭い。
 最後に逢ったときと少しも変わらない姿。摺墨《するすみ》色の衣装を着崩した格好が懐かしい。
 私はじっと相手の顔を見つめ、詰めていた息を吐き出した。
『月子、一人は寂しい?』
 なぜこの人は少しも変わらないのだろう。私の身体はあれから大人になっていったというのに。私の上に時間は容赦なく流れ、この人の上には流れていないというのだろうか。
「知りませんわ。今さらどんなご用?」
 自分の声が震えていないかが気になった。この人の鋭い視線から逃れるように、私はあらぬ方角へと視線を逃がした。
 ずるい。私は大学四年生にまでなっているのに、この人は昔の、十代半ばの幼い姿のまま。ただ、昔から瞳の力強さだけが外見とは反対に老成していたことを思い出し、苦々しい想いがこみ上げてきた。
『月子……』
 再び名を呼ばれ、私は逆らいがたい力に引きずられて視線を正面へと戻した。なぜ今さら私を呼ぶの。かつて、些細な喧嘩で姿を消した私のことなど、とうに忘れていると思っていたのに。
『戻っておいで。待っているから』
 先ほどまでのドラマのヒーローと同じ台詞を、この人の口から聞くことになろうとは、今の今まで思いもしなかった。
「何を仰っているのかしら。私がどうしてあなたの元に戻らなければならないの?」
『一人は、寂しい?』
「寂しくなどありませんわ! あなただってそうでしょう。ずっと一人で生きていらっしゃったのですもの。今さら私など必要ありませんでしょう!」
 強い赤光を放っていた瞳がふと翳りを帯びた。十三〜四歳の少年の顔に、なぜか仕事に疲れた男性の顔が重なって見える。
『月子、戻っておいで。皆、待っているよ?』
 また名前を呼ばれた。どうしてこの声を無視できないのだろう。腹立たしく思う反面、どうしようもなく惹かれて、強い熱のこもった赤光を見つめ返してしまう。
「私などいなくても平気なくせに……。そんなに私が隣で年を取っていく姿を見たいのね!」
 目の前に浮かぶ顔が困惑に歪んだ。狼狽する姿など滅多に見られないことを思い出し、私はなんとなく愉快な気分になってきた。
 喧嘩だっていつも私一人で怒って終わりだった。この人は涼しい顔をして私が怒る顔をじっと見つめているだけだった。こうやって困らせてみたかったのだと、今さらながら自分のひねくれ具合に呆れてしまう。
『月子、私のこの姿に飽きたのか?』
「飽きるとか飽きないとかの問題ではありませんわ。人間は同じように年を取っていくことを確認したいものですのよ。あなたは、私よりゆっくりと年を取るのでしょう!? あなたは若いままなのに、私はアッという間に老婆ですわ!」
 困惑顔だった相手の顔が私の苛立った言葉にふわりと笑いを刻む。まるで難解な問題が解けたときの受験生のような清々しい表情だった。
『月子と同じならいいのか?』
「何をおっしゃっているの? あなたは私とは違──」
 私は言葉の途中で息を飲む。目の前で摺墨の袖がゆったりと上がり、白い指先が私へと伸ばされた。
『月子、手を取りなさい』
 声は優しいのに、その口調には拒否を許さない強さが宿っていた。私はまた抗うことができず、夢遊病者のようにフラフラと腕を伸ばした。
 窓から差し込む月光に私の腕と長い摺墨の袖がぼんやりと浮かび上がる様子は、私の目には現実離れした光景に映る。先ほどの深夜番組の続きでも見ているような気分だった。
 赤光の持ち主と私の手が交わった刹那、ひんやりとした感触に続いて指先に電流が走った。
 かすかな痛みに思わず手を引っ込めかかった私の身体がグィと引かれる。視界いっぱいに摺墨色が広がっていた。
「……月子と同じならいいのか?」
 耳元で囁かれた低い声に驚き、私は反射的に顔を上げる。青白い月光が満ちる空間に、その人はいた。
 間近に見える赤い光。闇に溶け込む黒絹の髪。ぼんやりと浮かび上がる白い顔。なぜこの人がここに現れるのだろうか。
「月子、戻っておいで」
 囁かれた声に混じる熱い吐息に、私は無意識のうちに後ずさった。
「ど、どうして? あなたはあの場所から動けないはずでは……?」
 視界いっぱいに広がっていた赤光が引くと、目の前の人物の全身を見て取ることができた。
 目の前には、私と同じくらいの年齢の男性が片膝立ちで座り込んでいる。驚きに半ば腰を抜かしかかっている私の身体を支える腕も、つい今し方までの少年のものではなくなっていた。
 ほんの一瞬の間に、この人は十年近い時間を跳び越えてしまっている。
 私はかつてこの人に初めて逢ったときのことをハッキリと思い出した。彼は私の祖父よりも年上に見えた外見から、アッという間に少年の外見へと変化《へんげ》して見せたのだった。
 この人にとって、年齢などというものはあってないようなものなのだろう。変えて見せてくれと頼めば、赤ん坊や中年男性にだって変われるはずだ。
「月子は私が同じでないのが厭だったのか?」
 するりと伸ばされた腕が再び私の躰を引き寄せ、厚い胸板へと押しつけた。掌に伝わる摺墨の衣装の手触りも心地よい。ほのかに香る白檀《びゃくだん》の香りが懐かしく、鼻の奥がツンと痛んだ。
 衣装の胸元にしがみつき、私はにじみ出てくる涙を堪えて歯を食いしばった。
 この人には私のこだわりなど通じないのだろう。好きなように生き、好きなように外見を変えられるということがどういうことか、私にはまったく判らないのだから。
「辻守は街道から離れられないと仰っていたのに……どうして?」
 私が閉じこめられた腕の中で囁くと、彼はさらに腕の力を強め、私の黒髪に頬ずりしてきた。
「月子が帰ってこないから、迎えにきた」
 彼の声や言葉には魔力が宿っているに違いない。間近で囁かれた声に、私はどうしても逆らうことができなかった。喧嘩をしたと思っていたのも、きっと私一人だったのだ。この人は私の怒りなど取るに足りない事柄なのだろう。
「月子……。戻って、おいで」
 私一人で腹を立て、私一人でふてくされていたのだ。そして、一人で仲直りのきっかけが掴めないと、焦れていた……。
 小さく頷いた私の髪を摺墨の袖が何度も撫でつけ、頭上の彼の唇からは安堵のため息が漏れる。
「帰ろう。私たちの黒竜街道へ……」
 彼の背後で砂嵐の音が聞こえた。ザラザラとしたその音の先に、私は小さな歓声を聞いた気がしたが、今となってはどうでもいいことだった。
 青い光の洪水の中、私は白檀の香りに包まれたまま空を飛んだ。耳元で轟々と鳴る風音に混じり、彼の囁き声が聞こえる。
「もう……寂しくは、ない」

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