黒竜街道物語
第十二話:ガードレール
 月子がここにやってこなくなってからすでに十日が経っていた。以前は三日と空けずにきていたというのに。
 こんなことは以前なら想像もしていなかった。いや、今の状態は彼女が現れる以前の暮らしに戻っただけのことだが、月子という光を見た今となっては、ここは暗くジメジメとしたゴミ溜めのような場所にしか思えない。
 梨花蜜水をチビチビと飲みながら、私は墨を流したような空に浮かぶ真白の月を見上げた。星が月光に駆逐された夜は長い。刻々と動いているはずの月の位置をおぼろにでも測る物差しがないからだ。
 そういえば「私」などと自らを呼ぶようになったのも、月子に逢ってからだった。それまでは自分をどう呼んでいたのか忘れてしまった。
 気まぐれに姿を現す同族たちとの会話では、己らを指すときには「我」と称するのが普通であったから、普段の私もそう名乗っていたのだろう。あるいは他の呼び方をしていたのかもしれないが、今となってはどうでもいいことだった。
 月子が「わたし」と名乗るから、真似をして「私」と言っているうちに、それが当たり前になってしまった。
 器に残った僅かばかりの蜜水を一息に飲み干す。いつもなら最後に残った液体はことのほか甘いはずだが、今夜は喉にいがらっぽく絡まり、なぜか苦みを感じた。
 最近では梨花蜜の味がまったく判らない。それだけではない。食べるものもすべてが砂のようだった。
「……クルアン、そこにおるか?」
 苦い蜜が絡まる喉を震わせ、私はなんとか囁きを漏らした。まるで荒野の茨を震わす風のようにか細い声だ。
「お側に、主様《ぬしさま》」
 足下にわだかまる闇の中から声が響くが、そこに生き物の輪郭はない。虚ろな影がこだまを返したか。
「ご気分が優れないようですが……。辻の見回りは今夜も取りやめますか?」
「月が眩しすぎる。気怠くて動く気にもならぬわ」
 黒い風が勢いよく私の腹の上に飛んだ。底光りする水晶の瞳が一対、じっとりとこちらの視線の奥底を覗き込んでくる。
「このままでは主様のお身体に障りましょう。いっそのこと、その気怠さの原因を消しましょうか?」
 闇の中で光る瞳はぐいぐいとこちらに近づき、その下に開いた赤い口からは細く鋭い牙が覗いていた。
「私を消すか? それならいっそ楽でいい。辻守なら他の者でもできよう」
「何をおっしゃいますか。気怠さの原因は別にありましょう? ご自分で処置できぬとあらば、このクルアンめがやらねばなりません。……月子様はこちらにおいでにならない。ならば、月輪鏡をお返しいただこうと、そう申しておるのでございます」
 私は腹の上で尻尾を振り立てる黒猫をじっと見つめた。ピカピカと光る瞳には小狡い色が浮かび、口元から覗く牙を舐める舌先は貪欲な飢えにひっきりなしに蠢いている。
 もしここで私が「是」と答えたなら、この獣は新たな獲物を得たことに狂乱して喜ぶのだろうか。
「月輪鏡は月子にやったものだ。取り返すには及ばぬ」
「あれは長らく主家に伝わる大事な秘宝でございます。いかに月子様とはいえ、簡単にお譲りできません」
「私がいいと言っているのだ。出すぎたことを申すな」
 キラリと黒猫の瞳が鋭い光を反射した。そこに月が宿ったような強さだった。
「カント・ガントが月子様に変化の術をかけてから、かの方はかなりご立腹でした。不始末の決着はあの愚か者につけさせましょう」
 何をする気かと呼び止める暇もなく、闇の獣はとぐろ巻く暗闇の底へと飛び込み、アッサリとその気配を消した。そして、瞬きするほどの時間で舞い戻ってきたかと思えば、その口には自分よりも図体のでかい生き物をくわえていた。
「痛いな、クルアン。おいらを荷物のように扱うのはよしとくれ。首の骨でも折ったらどうすんだ」
 子どものキンキン声が響き、闇の中でこだまが何度もその声を反芻する。
「主様の御前ですよ、カント・ガント。不作法者でも最低限の礼儀くらいは心得ていると思いましたが?」
 潜めたクルアンの声は地にわだかまって動かないのに、カント・ガントの声だけは空気の上を上っ滑りして辺りを駆け巡っていく。
 くわんくわんとあちこちにぶつかる金切り声が落ち着いた頃、私の前に黒い猫とうずくまる少年の姿が浮き上がってきた。
「主様、まだこの前のこと怒ってんの?」
「……月子をマシュマロの抱き枕にした件のことなら、私は別に腹を立ててはおらぬ。怒っているとしたら月子のほうだろうがな」
「チェッ。月子様も洒落が通じないんだから。ちょっとした遊びじゃぁないか」
 私は用心深く一人と一匹の様子を伺った。カント・ガントの悪びれない態度に、クルアンは神経質そうに尻尾を振り立てている。抱き枕事件で狂奔するハメになったのは、私ではなくクルアンのほうだった。
「抱き枕のまま眼を醒ました月子様をなだめすかすのに大変でした。元の姿に戻すのに火炎樹百本と月光石一万個が必要で、三日三晩飲まず食わずで奔走させていただきましたがね」
「そんなの。おいらなら一発で元通りにしたのに」
「あなたの持っている魔導具は主様直伝の品。それを何でもかんでも気安く使うんじゃありません!」
「そんなこと言ったって、大泣きしてたらしい月子様を静かに宵星亭から連れ出すのには、あれがうってつけの方法だと思ったんだよぅ」
「だからと言って──」
 私が止めなければ、彼らは延々と言い争いを続けていたかもしれない。私より、月子より、うなじを逆立てているクルアンが今回の事件のことで一番腹を立てているのだ。
「もうよい。カント・ガント、月子の身体が無事に元通りになっておるかどうか確認したい。月輪鏡との照準を合わせてくれ」
 お安いご用、と下げていた鞄から木箱を取り出し、子どもは闇が横たわる床の上に中身をぶちまけた。彼は口の中でもごもごと呟き、一心不乱に辺りを歩き回る。端から見ていると、その姿は巣を整えようと必死なリスのようだ。
 そうこうするうち、床の一画がぼんやりと白い光で覆われ始めた。
 私は退いたカント・ガントと入れ替わって輝く泉の傍らに佇んだ。光の柱の底には、知らない場所の夜が映っていた。
 藍色の空気に満ちた世界に点々と灯る炎は、多くがピクリとも動かない静かな光だ。ときおり、ゴゥゴゥと凄まじい轟音と共に光の礫が飛び交い、地を走るが、薪が爆ぜる音も炎が身をくねらせて踊ることもない。
 月子の世界の夜は蛍苔《ほたるごけ》の輝きのようだ。
「あれが電灯でございます」
 足下で囁くクルアンの説明に頷きながら、私は泉の上に手をかざした。立ち上がっている光の柱を少しずつ揺すってやれば目的のものが見えてくる仕掛けだ。目的に正確な照準を合わせるには多少の修練がいるが便利な道具だった。
 感じ取れる月輪鏡の魔力を追って照準を合わせていくと、黒々とした道が網の目状に広がり、その道の所々に白い柵が寄り添っている景色が見え始めた。その道の上を、先ほどの電灯を灯した影が轟音と共に転がっていく。照らし出される白く低い柵はなんとも不格好だった。
 だがしかし、月子の世界にも黒い街道があることに私は少なからず驚いた。彼女の口からは聞いたことがなかったのだ。この街道を守っている守護者は誰だろうか。
「アスファルト舗装された道路……月子様はそうおっしゃっておりました。油臭い石を固めて出来ておりまして、我らの街道のように番人はおらぬとか」
「では、いったいどうやって街道を守っておるのだ。辻守もなく街道世界は維持できまいが」
「月子様のおいでの場所では、こちらのように次元歪曲がないそうです。道路の修繕をする者はおりますが、歪《ひず》みがなくば辻の番人は不要でしょう」
 私はどんな顔をして足下の存在を見下ろしていたのだろう。首を伸ばしてこちらを見上げる黒猫の瞳は三日月のように細まり、昏い翳りを宿していた。
「ご気分が優れないのでしたら、今夜はお休みになりますか?」
「いや……。大丈夫だ」
 再び光の泉の底を見下ろした私の視界に、真っ白な柵を指先で弾きながら歩く少女の姿が飛び込んできた。
 月子だ。夜の風にふわりと黒髪が揺れ、彼女は微睡む闇に溶けていきそうだ。一瞥する限り、真っ白で甘く柔らかなマシュマロにされていたときの後遺症は出ていないようだった。
 彼女でも飛び越えられそうな低い柵が光を反射し、藍闇の中に彼女の横顔をうっすらと照らし出す。
 真っ直ぐに顔を上げて歩く姿に、私はほっと胸を撫で下ろした。もしかしたら、ここにこないのは後遺症で動けなくなっているのかもしれないと、微かに危惧していたのだ。
 と同時に、ピンピンしているというのに、こちらにこようともしない彼女の冷たい仕打ちに胸の奥が軋んだ。
 見守る先で、彼女の爪がパチパチと柵を弾く。一定の調子を刻む爪は白い柵の照り返しを映していっそう輝き、彼女はまるで指先だけで踊っているようだった。
 しばらくの間、私は月子の指先の動きに見惚れた。彼女が刻んでいる律動は私が教えて唄の拍子だ。音色を口ずさんでこそいないが、今の彼女の身体はその唄の音で満たされている。
「声をかけないのですか? 今なら月子様お一人ですよ?」
「月子が弾いている柵、あれはなんというのだ?」
 私はクルアンの問いかけを無視し、彼女が指を踊らせる細長く白い舞台の名を問うた。
「は……。確か、あれはガードレールという名だったと……」
「がぁどれぇる?」
 声に出してみると、なんとも不思議な音の名前だった。耳の奥に響くその名は郷愁を誘うもの悲しさを漂わせる。月子の世界にある物の名前は、ときどき信じられないほど私の心を掴む。
 月子はなおも指先を踊らせ、白く浮き立つ柵に私の教えた唄を奏でさせた。私の前で小鳥のようにさえずったときと同じように、彼女の指はがぁどれぇるという名の夜の小鳥に唄を教える。
 私は唇を動かすことなく、そっと彼女の名を呼んだ。音として漏れることはなかったが、月子は突然立ち止まり、キョロキョロと辺りを見回した。
 私はもう一度彼女の名を呼んだ。今度も口の中、舌の先だけで転がすように。
 ゆっくりと月子の白い顎が上がり、眩しげに細めた黒い瞳がヒタとこちらを見上げる。いや、彼女の世界の輝く銀盆を見つめているのだ。月子の世界を見下ろす私の瞳は、今は彼女の世界の月となっている。
 もう一度、私は梨花蜜水を味わうときのように、彼女の名を舌で転がした。蜜水でも感じたことのない甘露を舌先に感じたのは気のせいだろうか。
 私の視線の先では、月子がはんなりとした微笑みを浮かべる。白く細く輝く帯に身を寄せ、世界を見下ろす月をじっと見つめる彼女の姿は、蜜を滴らせる梨花のように甘く私の胸に刻まれた。

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