黒竜街道物語
第十話:トランキライザー
 彼はドラッグの匂いが満ちた場所へと入り込んだ。彼の職業を知る者ならば、こんな場所にくる人物だとは思いもしないだろう。
 甘ったるい薬の香りに顔をしかめ、煙に燻され壁際を伝うようにして奥へと進んだ。ほどなく、ほの赤い色彩がゆらゆらと蠢きながら彼を迎える。
「いらっしゃいませ、教授。今日はお一人ですか?」
「今日も、だろう? そうそう。先日は孫が世話になったそうだね。後をつけられて以来、あの子が入り浸るようになっていたとは知らなかったよ。悪いことをしたかな?」
 年相応に白く変わった髪を撫でつけながら、教授……アッサジュ・パルダは高椅子に腰を降ろした。
「将来のお客様候補ですからね。そう邪険に扱ってはおりませんよ。……それより教授、あちらを」
 赤髪の若者がカウンターから身を乗り出すようにして耳元で囁く。ほとんど視線を動かすことなくカウンター端を示され、教授はチラリとそちらに視線を向けた。
「誰だね? この店ではあまり見かけない顔だが。君の手にも余る御仁なのかね」
 アッサジュ・パルダは微かに首を傾げると、目の前に迫っている若者の白い顔を見つめる。相手の眉間に寄った小さな皺が、若いバーテンの困惑ぶりを伝えていた。
「ここにきてから三時間になりますが、その間に二回ほど絡まれているのです」
「それはここでは珍しいことでもないのだろう? 私は幸いにしてガイストのお陰で手出しされないが」
 老教授はバーテンが出した琥珀色の液体で喉を湿らせ、再びチラリと新顔に視線を向ける。
 東洋系だろうか、白いどこか温かみのある肌色をしており、濡れたような黒い髪がその肌をより際だたせていた。横顔を見る限り、きれいな顔立ちでもある。
「今夜はマスターが留守。それにガイストも今夜は来ないようですしね。この調子ですとまた一悶着ありそうでして……」
「一悶着ということは、あの新顔さんは絡んでくる輩を返り討ちにしているということかな? 適当にいなしもせずに?」
 苦笑いを浮かべてバーテンがそっと頷いた。
 酔客同士のトラブルならば地区の元締めでも呼べば解決しよう。だが半端な喧嘩腰で始まり、妙な雰囲気で立ち消えになることがたまにある。そういうのがもっとも厄介なのだ。最後の最後に暴発することが多いから。
「虫避けに私があのお客人と一緒にいたらいいのかね?」
 バーテンの言わんとしていることを察し、老教授は小さな笑い声を転がす。どうにも期待されると弱い。しかも頼み込んでくる相手がこの赤髪の青年だ。普段は取りつくしまもない素っ気ない態度の彼が困惑するほどだからよほどのことなのだろう。
「申し訳ありません。こんなことはガイストのお墨付きをいただいた教授にしか頼めませんので……」
「まぁ、いいさ。この老体が役に立つのなら。ここは私の精神安定剤《トランキライザー》だからね。つまらないことで潰れたりして欲しくない」
 恐縮するバーテンから新たなグラスを受け取ると、アッサジュ・パルダはゆったりとした足取りで高椅子の列を抜け出した。
「よぅ、教授! 来てたのかい。今夜はドラッグをキメたくなったのか?」
 太い両腕を剥き出しにした男が肉厚の唇を歪めて嗤いかけてくる。それに静かに手を振り、老教授は持ち前の人懐っこい笑みを浮かべた。
「いや、私はドラッグはやらないよ。この老体だと効き目が強すぎるからね。今夜は美味い酒が呑みたくなってきたのさ。どうだね、お前さんも呑んでるかね?」
「言われなくたって呑んでるぜぇ。オレぁ、赤ん坊の頃からミルク代わりにビールを飲んでいたんだからな」
 豪快に男が笑い、周囲の連れたちと乾杯を繰り返している。すっかり上機嫌なようだ。
「そりゃぁ、いい。私からも贈らせてもらおう。おぉ〜い、ヴィーグ。こちらにビールを樽ごと運んでくれないか?」
 カウンター向こうでグラスを磨いていたバーテンがチラリと振り向き、ゆらりと赤髪を揺らす。了解の印に頷いたのだ。そんな些細な仕草で相手のことが判るのが嬉しく、教授は浮かべていた笑い皺をさらに深くした。
 男たちの元に酒樽が運ばれると、周囲の客たちも混じってその場は大変な盛り上がりようだった。
 頃合いを見てその喧噪から抜け出すと、アッサジュ・パルダはのんびりとした足取りでカウンターに残っている客に歩み寄る。隣りに立っても気にしない相手の態度に、老教授は苦笑いを浮かべた。
 これは確かに取っつきが悪い客だ。前のトラブルのときも、他の客から声をかけられて無視でもしたのだろう。だが、相手を完全に怒らせる前にトラブルを収めるとなると、よほどの人物に違いない。
「失礼。ご一緒してもよろしいか?」
 アッサジュ・パルダはまわりくどいことは苦手だった。昔から人間と話をするよりも骨董品の類と向き合うことが遙かに多かった。巧みな話術などを期待されてもどうしようもないのだが……。
 案の定、新顔の客は無視したままだったが、教授は気にすることなく隣りに腰を降ろした。相手は沈黙で拒否したつもりかもしれないのだが。
「ヴィーグ、こちらと同じものをもらえるかい?」
 素っ気なく頷くバーテンの瞳にホッと安堵の色が浮かんだ。それが何か可笑しくて、老教授はクスクスと笑い声をあげる。
 人間も存外面白いものだ。つき合っていくうちに色んな顔が見えてくる。考古学にのめり込んでいて人付き合いを疎かにしていたが、この年になってからこんな楽しい思いをさせてもらえることになるとは。
「今夜はいい月夜だろう? ついフラフラと誘われるようにここにきてしまったのだよ。月を見ているとワクワクしてきて眠れなくなるのでね、この店で呑む酒は精神安定剤代わりさ」
 訊かれてもいないことを話ながら、教授は出てきたグラスをつまみ上げた。フルート型のグラスの中で、炭酸が星のようにヒラヒラと揺れている。それを少し口に含み、老人は満足そうにバーテンに微笑みかけた。
「相変わらずいい腕だよ、ヴィーグ。このカクテルの名は?」
「名前は決まっておりません。今日、初めて作りましたので……」
 バーテンは棚の一画から真四角の酒瓶を引っぱり出し、それを教授の目の前に差し出してきた。
「惑星カロルの酒かね。初めて呑んだよ」
「合法の天然ドラッグが混じっているのです。医者では精神安定剤として処方されるものですけどね」
 手渡された瓶の中で透明な液体が揺れている。多少は白っぽい色がついているようだが、店の暗い照明の下ではハッキリとは確認できなかった。
 ふと視線を感じて隣を見ると、今まで無視を決め込んでいた客が手許の酒瓶を覗き込んでいるところだった。
「どうぞ、手に取ってご覧なさい」
 酒瓶のラベルを見つめていた新顔の視線が上がり、教授の灰色がかった蒼紺の瞳にぶつかる。アッサジュ・パルダは相手の瞳に思わず酒瓶を取り落としそうになった。
 今、カウンターの上に置かれたグラスの中で揺れるカクテルそっくりの瞳の色だった。白水晶の煌めきに似た、薄い色彩の瞳は不気味なほどだが、澄んだ色合いが知性を感じさせる。
 絡んできた連中はこの瞳を見て気勢を削がれてしまったに違いない。こんな珍しい瞳の色は初めて見た。
 素直に受け取った相手の顔を間近に見、老教授はバーテンがどうしてこのカクテルを作ったのか判った気がした。赤髪の青年もまたこの瞳の印象深さに囚われているのだろう。
「不思議な味がするのは、薬のせい?」
 唄うような声が漏れて再び瞳が持ち上がると、アッサジュ・パルダは魅入られていた呪縛から逃れるように赤髪のバーテンを振り返った。
「ドラッグが酒の味を決めているのかね?」
 カウンター側で作業をしていた青年がチラリと教授と視線をあわせ、そっと首を振る。
「いいえ。このドラッグには味がありません。カクテルの味は別物ですよ」
 面白くもない答えだったが、教授の隣りに座る人物は納得したように頷いた。その勢いのままにカウンターに酒瓶を返すと、静かに立ち上がる。
「美味しかったよ。また呑みにくるかもね。……そうだ、カクテルの名前はトランキライザーが相応しいよ。他の名前なんて陳腐なだけだ」
 スゥッと色の薄い瞳が細められる様子を見守り、老教授はそれが猫眼のようだとぼんやりと考えていた。まるで黒猫が三日月を見上げて嗤っているようだ、と。
 客が立ち去った後、アッサジュ・パルダは大きな吐息をついていた。
「申し訳ありません、教授。お疲れになりましたか?」
 囁きかけてくるバーテンの氷色の瞳を見つめ、これ以上に薄い色の瞳を再び思い出すと、老教授はブルルと背筋を震わせる。
「いやはや、すごいお客だったね。私には男か女かも判らなかったよ。それにあの瞳、あれは魂を抜き取られそうな色をしているね」
 曖昧な微笑みを浮かべるバーテンが小さな声で「そうですね」と同意したが、すでに老教授は周囲の物音など耳に入らない状態だった。
「カクテルの名はトランキライザーか。う〜む。カクテル以上に不思議な人物だったな」
 ぶつぶつと呟き、物思いに耽る老教授を見守るバーテンは、その様子に微かな苦笑を浮かべていた。

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