黒竜街道物語
第九話:かみなり
 遠く西の空が鋭い紫に輝いた。
 遠雷だ。鮮やかな色に染まる雨雲は海に浮かぶ藻屑のように蠢いている。
 雲足は遅い。まだここまでは届かない。稲妻もここまでは落ちてこない。
 ヒラリと舞い上がると視界にたなびいた自分の黒髪が映し出された。闇を凝り固めたような漆黒が今日はいつもに増して輝いて見える。
「クルアン……。いるか?」
「おそばに、主様」
 呼びかけに応じて遙か眼下の草むらで黒い影が踊った。暗い緑が広がる草原は遙か眼下に横たわり、草むらの影は小さく拳大の大きさにしか見えない。
「あれが大幹《たいかん》を抜けたようだ。黒竜街道をまっしぐらに北上しているぞ」
 囁くような声であったが、影にはその声がしっかりと届けられていた。落ち着き払った声で返事が返ってくる。
「そろそろ“宵星亭”にお入れになりますか?」
「苛ついておろうな。……あれは気が短いようだ」
 そっと肩で息をした。ため息混じりの声を自覚して、虚空に浮かぶ者は眼下の草むらから遠い雷雲へと視線を逃す。
「カント・ガントといい勝負でしょう。あるいはそれ以上かと。しかし、若主様も少しずつ学んでおられるようですよ。旅の連れがなかなか強情な質の者のようですからね」
「様子を見てきてくれ。あれが怪我でもしようものなら月子がうるさい」
 草むらの奥からクスリと微かな笑い声が漏れ、短く「御意」と囁く乾いた声が届けられた。楽しげな気配がゆらゆらと蠢き、現れたときと同じように影を踊らせて消えていった。
 消え去った気配の行方を手繰るように耳を澄ませる。ヒタヒタと足音を忍ばせる様子が手に取るように伝わってきた。
「ま、クルアンに任せておけば大事ないか」
 ユラと一歩を踏み出し、両手を広げて西風を全身に受ける。雨風の荒々しさが嵐を予感させる。それを嬉しげに見上げる瞳は血色をしていた。
「こい、嵐よ。我の元へ……。神の声を届けよ。神鳴りの轟きと共に……」
 摺墨《するすみ》の衣装が風に膨らむ。黒い帆のように広がった裾が強風にバタバタと鳴いた。草原から見上げたなら、虚空に浮かんだ奇妙な帆そのものだろう。
 ゆっくりと進んでいた雨雲が呼び声に呼応するように往き足を早めた。鞭打たれる山羊の群のようだ。その雲に向かって足を進めた。走り寄る幼子を抱き留めるような穏やかな歩みだった。
 虚空を一歩一歩静かに進んでいた者は稲光に頬を蒼く染める。瞬く間に雨雲が迫り、見上げるほど間近に迫った黒い雲の間から紫の閃光が走った。
 ──黒竜街道の主よ。未だお前は狭間の守番のままか?
 紫電の轟きに混じって野太い声が空気を震わせる。揺らめく風が声の強弱にあわせてキリキリと草原の草たちをなぶった。
 ──神にもならず、人にもならずとはご苦労なことだ。
 重ねて言葉が空気を振動させる。鼓膜どころか肺腑まで震撼させる響きにも虚空の黒い影は平然とした顔で佇んでいた。
「来るべきときに来、去るべきときに去るのが我の流儀よ。神などとご大層な名をつけられるのはご免被る」
 ──だが化け物との誹りは受けまいに。
「神は神でも邪神と呼ばれでもしたらどうしてくれる。安穏な日々が終わってしまうわい」
 黒き主の冗談とも本気とも知れない口調に雷電が笑う。グラグラと空気を引き裂いて大地に電撃が突き刺さった。草むらの一部が黒く焼け焦げ、煤けた匂いを辺りに放つ。
 ──小さな器に心を押し込めて窮屈であろうにな。
 振りまかれた稲妻の煌めきが雲を不気味な色に染めた。魔神が嗤っているような雲の動きに、虚空に浮かぶ者の眼が細くなる。
「ご大層な器を持つ必要もあるまい? 貴卿こそ真面目に器を探したらどうだ。いつまでも不定形というのは好ましくないと聞くぞ」
 それは問いかけか説教か。発した言葉に相手は黙りこくった。痛いところを突かれたからなのか、あるいはばかばかしさに二の句が継げないでいるのか。沈黙から推し量ることはできない。
「いずれはこの器にも寿命がくる。その前にまともな後継者を作り出さねばならぬぞ。そちらとて雷《いかずち》に身を潜めるのも限界があろうが」
 ──どちらをとるにも一長一短か。お互いに苦労する。
 摺墨の袖がふわりと空に舞った。優雅な動きに風さえ見惚れたか、轟々と吹きつけていた風嵐がピタリと止んだ。
「聞いているか? 南のほうでは使い手とその眷属が結界繭の中に籠もっているそうだ。我々もいつかは朽ち果てる身であろうか?」
 ──さて? 共生できねばそうなろう。神鳴りを届けられぬようになったら終わりよ。
 飄々と返ってくる野太い声に黒髪の主はかすれた笑い声を漏らす。淡々としたものだ。風の止んだ世界に雷鳴の轟きだけが大きく小さく響き続ける。
「寂しいものだな。伝説の中でしか生きられぬ身というのは」
 ゴゥンと頭上で雷電が呻いた。繰り返される稲光の閃光が草原を青黒く染める。世界を引き裂くような雲の蠢きがまるで命の鼓動のようだった。
 再び摺墨の袖が揺らめいた。
 風が吐息をつくように流れ始める。翻弄される衣装が逆巻く渦潮のように虚空を跳ねた。一緒になって黒髪も逆立つ。それが慟哭する獣のたてがみか翼のように見えるのは気のせいだろうか。
 ──楽園は滅び、罪人だけが残った。それでも我らは生きている。伝説となって。
「永い……。我らが眠りにつく日はいつ来るだろうか」
 呟きに紫の光が走った。焦げ臭い匂いが漂い、草原を焼き払っていく。
 ──この世界は滅びなかった。なれば、我々も在らねばなるまいよ。そうであろう、街道辻の番人よ。
 然り、と黒髪の下で囁きながら、守番は血色の瞳を雷雲へと向けた。
 ──神鳴りが消えるまで。
「伝説が埋もれ消え去るまで」
 同時に放った言霊に苦笑を漏らし、異形なる者たちは思い馳せるように沈黙した。

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