黒竜街道物語
第七話:毀れた弓
 黒竜街道から離れたある森に、一人の狩人が住んでいました。
 大変な弓の名手で、ひとたび彼が弓を引けば、射ることができぬ獲物はないという腕前です。
 森で狩りをして獲物が捕れると、黒竜街道沿いの大きな街の毛皮屋や細工屋の下請けに売りに行くのが彼の日課なのです。
 ある日、狩人は獲物を求めて森の奥深くまでやってきました。その日は珍しく朝から獲物に行き当たることがなく、彼は手ぶらのままでした。
 今日は何も捕まえることができないかもしれないと、狩人は諦めかけたそのとき、森の奥にある泉の方角から水音が聞こえてきたのです。
 動物が水を飲みにやってきたに違いないと、彼は足音を忍ばせて泉へと近づいていきました。
 泉に近づくと、確かに水音がします。動物が水浴びをしているような音で、これは簡単に狩ることができそうだと、狩人は嬉しくなりました。
 狩人はこっそりと動物に近づき、薮の中から立ち上がると同時に得意の弓を射かけたのです。
 ところが、なんということでしょう。
 水浴びをしていたのは動物ではなく、一人の少女だったのです。黒髪を揺らしながら、足先を水に浸けてパシャパシャと水面を波立たせています。
 狩人がしまったと思ったときには弓からは矢が放たれた後でした。矢は一直線に少女に向かって飛んでいきます。狩人は「危ない!」と叫びましたが、泉で足を泳がせている少女は気づきません。
 狩人は少女に矢が突き刺さるところなど見たくはありませんでした。少女がもらすであろう叫び声を聞くまいと、目を伏せ耳を塞ぎます。手にしていた弓がガタガタと足下に転がりました。
 しかし、いつまで経っても少女の叫びは聞こえてきません。
 狩人は恐る恐る目を開けて泉のほうを見ました。
 少女はまだそこにいました。しかもこちらを不思議そうな顔をして見ています。黒い瞳をくりくりと動かし、狩人の様子を眺めているのです。
 少女に向かって飛んでいった矢はどこにも見当たりませんでした。
 狩人は辺りをキョロキョロと見渡しましたが、矢が反れた気配はありません。まるで幻のように消えてしまっていたのです。
「お嬢さん、怪我はないかね?」
 狩人はやっとの思いで口を開くと、少女に無事を訊ねました。
「怪我? どこにもないわよ」
「森の奥までどうやってきたんだい。こんな寂しい場所に一人でいては危ないよ」
 狩人が再び訊ねると、少女はニッコリと笑って天を指さします。
「お月様が出ているから寂しくないわ」
 狩人が樹木の間から見える空を見上げると、そこには昼間の白い三日月がうっすらと見えました。月は今にも空の中に消えそうです。
 狩人が再び泉に目を向けると、少女がゆっくりと立ち上がるところでした。彼女の着ている服は不思議な形をしていて、この辺りでは見たこともない意匠です。
「お嬢さん、いったいどこから来たんだい。あまり見ない格好だね」
「遠くからよ。でも、そろそろ帰らないとね」
 少女が胸に下げていた首飾りをそっと手に取りました。飾りに鏡がついているのか、首飾りはピカピカと光っています。
「街道までの道は判るかい? 送っていこうか?」
 狩人が訊ねると、少女は首を傾げてニッコリと微笑みました。
「ありがとう。大丈夫よ。一人で帰れるから」
 少女は首飾りを握りしめてしないほうの手をヒラヒラと振り、狩人が見ている目の前で泉の中に飛び込みました。止める間もありません。
 ところが、水の中に沈むはずの少女は水面の上にふわりと足を滑らせ、泉の中央までくるとふわふわと空に向かって昇っていったのです。
 狩人は茫然とその後ろ姿を見送りました。
 銀色の粉が少女の昇っていった後に舞い散り、泉の中に落ちると砕けていきます。
「さようなら。またね」
 天高く昇っていった少女の声が聞こえてきたのは、月が木の陰に入って見えなくなってからのことでした。
 狩人は泉のほとり、少女のいた場所まで歩いていきましたが、そこは静まり返り、後には何も残っていません。
 日が落ちるほど長い間、狩人はそこに佇んでいましたが、ようやく重たい足を引きずって弓を探しにいきました。
 薮の中に転がっていた弓は石に当たって砕けてしまっています。治すのにとても時間がかかりそうです。
 その弓をそっと拾い上げ、狩人は森の自分の家へと帰っていきました。
 森の小道には月のか弱い光が落ちています。その光を辿って木々の枝の隙間から見える月は、狩人が手にしている弓のように歪み、ぼんやりと光り輝いていました。

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