黒竜街道物語
第五話:釣りをするひと
 その小柄な老人の背後には長い長い行列が続いていた。
 列の最後がどこで果てるのか判らないほどで、一人か二人ずつ老人に話しかけては、頭を下げてどこかに消えていく。
 早朝に彼がこの土手に腰を降ろしてから今の昼下がりまでずっと、行列は短くなるどころか長くなる一方のようだった。
 編み笠に薄墨色の袍をまとった姿はどこかの楽隠居といった感じだが、深く刻まれた皺の具合から老人の年齢を推し量ることは難しそうだ。
 とある恰幅の良い初老の男が老人の傍らに平伏すると、頭を地面にこすりつけて泣き始めた。
「ご老人、お助けくださいまし。孫が五日も熱にうなされております。医者も匙を投げてしまってどうしたらよいのか……。お知恵をどうぞお貸し願います。どうか……」
 老人はさめざめと涙を流す男をチラリと一瞥した後、眼下に見える川面《かわも》の波紋をジッと見つめた。
「さてはて……。今日は魚どもの機嫌が悪いようじゃて」
 老人の手の中には細く伸び上がる竹竿がある。その先端には、蜘蛛の糸のようにか細い釣り糸が、時折吹いてくる微風にふわりふわりと揺れ動いていた。
 釣りをしている老人に、男はなおも平身低頭して懇願する。
「お代はいかほどでもご用意いたします。ですから、どうか孫を……」
「お前さん、儂が何を釣っておるように見えるかね?」
 必死の懇願を続ける男の声を遮ると、老人はのんびりと枯れ枝の指先を伸ばして水面を指さした。
 男は「はぁ?」と曖昧な声を上げ、水面と老人の顔を見比べる。戸惑った表情の中には、どうやって答えたものかと懸命に思案しているらしい色が伺えた。
 しかし、上手い言い回しが思い浮かばなかったのか、おずおずとした口調で見たままのことを口にする。
「あの……釣り糸が宙を舞っておりますので、それでは魚は釣れぬかと」
 男の返事に、老人が呵々と笑って頷いた。
「左様。水の中におる魚は釣れぬな。お前さんの頭はまだまともなようだ」
 男は再び「はぁ……」と曖昧な声をあげて老人の皺深い横顔を見つめる。何が言いたいのかと押し黙っていると、老人の口元がニタリと歪んだ。
「病のことを訊ねるに、昼間っから釣れぬ魚を釣ろうとしている老いぼれを問いただしたところで役には立たぬ。街中の薬屋を訪ねたらどうじゃな」
「それはもう! 足を棒にしてあちこちを歩き回り、もうここより他に頼る術がありません。どうぞお慈悲を……」
 ガバリと平伏した男の禿げ上がった頭部を眩しそうに見た後、老人は自分の顎に生えた長い髭を細い指でゆったりと撫でた。
「今朝からずぅっとこの列に並んでおいでじゃな。ならば今日この街に着いたばかりの旅人のことは知らぬじゃろう?」
「旅の薬の行商人ならあちこち当たりました。しかし彼らの誰に聞いても孫の熱を下げる薬はどこにも……」
 言い募る男をまぁまぁと老人が掌を振ってなだめる。
「もう街の外れ茶屋に着いておる頃じゃろう。珍しい銀石を持っておる子どもとその子どもの連れに逢いに行きなされ。売ってはくれぬが、鄭重に頼めば薬の作り方を教えてくれるぞ」
 初老の男は独楽《こま》のように飛び上がり、大声で「あぁ、ありがたい! これで孫が助かる!」と叫んだ。
 そのまま駆け出そうとした男の足を老人が細腕で押さえる。枯れ枝のような腕なのに万力のごとき怪力だ。男はピクリとも足を動かせない。
「ほれ、教え賃は?」
「あの……いかほどお包みすれば良いので?」
 老人は「金などいらんわ」とにべもなく答えて、ヒョイヒョイと手首を振り、男を差し招いた。
 老人が顔を近づけた男の耳元でボソボソと何ごとかを囁くと、男は一瞬戸惑ったように眉を寄せたが、すぐに頷くと老人の耳に囁き返す。
「ふむ。それはよいことを聞いた。では、駄賃はそれでけっこうじゃ」
 ヒラヒラと手を振る老人に頭を下げると、男は土手の坂道を転がるようにして降りていった。そのまま一目散に街外れへと走っていく。
 男の姿が見えなくなるとすぐ、行列の先頭にいた中年女がしずしずと歩み寄ってきた。どこかの金持ちの奥方らしく、彼女の肩掛けは沙羅《しゃら》織りの素晴らしい柄模様である。
 老人は婦人には目もくれず、竹竿をヒラリと振って釣り糸をたぐり寄せた。糸の下の方には歪な形の浮《うき》がしがみつき、先には点々と小さな小さな針が取りついている。
 糸と針の具合を確かめると、老人は飄々と腕を揺すって竹竿を振った。ふんわりと風に乗り、糸がハラハラと土手の草上を滑り落ちていく。
 その様子を眺めていた見目麗しい奥方が思いきって「あの……」と声をかけてすぐ、土手の下から雷のような大声が上がった。
「こら、そこの爺ぃ! 人助けのフリをして金を巻き上げているのはお前か!」
 轟々と吼える虎のような顔をした大男がノシノシと土手の坂道を歩いてくる。中年女はビックリして人垣の中に逃げ込んでいった。
「はて、儂は金など貰っておらんがの。それにお前さんに迷惑をかけたという憶えもないが?」
「何を言うか。今、ここを通り過ぎていった男に教え賃を寄越せといっただろう。こんなところで日がな一日座っているだけで喰っていけるとは、よほど実入りがいいに違いない。さぁ、俺にもそのやり口を教えやがれ!」
 横柄な男の態度に老人は片眉を隆々と上げる。が、成り行きを見守る人だかりにチラリと視線を走らせて「ふむ」と唸った。
「おい、爺ぃ! ボサッとしてないで俺にもてめぇの食い扶持を教えやがれ! サッサと教えないと、こうしてやるぞ!」
 胸ぐらを掴まれ、ガクガクと揺すられながら、老人は口元をニタリと歪める。
「ちょっと、お前さん。ご老人にそんな無体なことをしちゃぁ……」
 人垣の間からオロオロと声があがったが、狼藉者はカァッと獰猛な鼻息を吐いて人だかりに向かって拳を振り回した。
 人々は乱暴者の恐ろしさに震え上がり、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。蟻の行列のごとく長く伸びていた人の列がアッという間になくなった。
「ほれみろ。てめぇが早く教えないから今日の食い扶持はあがったりだぜ」
 ゲラゲラと下品な笑い声をあげた男の顔を、老人は白い眉の下から炯々と光る瞳で見上げた。
「お前さん。そんなに毎日の禄が欲しいかい?」
「おぉ、欲しいとも。遊んで暮らせるなんざぁ、けっこうなことだ。腹が減るってなぁ、惨めなもんだぜぇ」
 ふむふむと小さく頷いた老人の瞳が底光りを繰り返す。が、大男は鼻息も荒くふんぞり返るばかりだ。
「で、教えてやったら何を駄賃にくれるのかね?」
 ジトリと上目遣いに老人が男を見上げれば、男は歪に口元をつり上げて自分の腕を叩いた。
「爺ぃ、痛い目に遭いたいのかよ。つまんねぇこと言ってねぇで、トットと教えな」
 男の様子に老人が静かに目を細めて笑う。
「人を殴れば自分の拳も痛かろう。ほれ、見てみぃ。今日の魚はでかそうじゃ」
 老人が顎でヒョイと川縁を示した。投げ出された竿の先にくくられている釣り糸がピンと引っ張られ、川面の上を渡って対岸の土手の向こうへと伸びている。
「それがどうしたよ、爺ぃ。俺が知りたいのは……」
「あの先じゃ」
 老人が腰を屈めて足下に転がっている魚篭《びく》を拾った。矍鑠《かくしゃく》とした足取りで土手を降り、老人は川の中にざぶざぶと入っていく。
「おい、爺ぃ! どこへいく!」
「なに、今日の食い扶持を取りにいくのじゃよ」
 アッという間に腰まで浸かり、さらに胸まで浸かっても老人の歩みは止まらない。とうとうトップリと頭の上まで浸かって水の中に沈んでしまった。
 唖然と見守る乱暴者が慌てて川縁に駆け寄って老人が沈んだ辺りを見渡していると、遙か先で老人の被っていた編み笠がプカリと水面に浮き上がってきた。そしてすぐに薄墨色の袍が水面から覗く。
 見る間に胸が、腰が、太股が見えて、ヒョイヒョイと老人は対岸の土手を上がっていった。
「こ、こら! 爺ぃ、逃げるのか!」
 大男は対岸まで届く怒声を発して、バシャバシャと膝まで川水に浸かる。と、遠くから老人の声が響いてきた。
「教えろと言うたろう。サッサと来んと置いていくぞぉ」
 男は慌ててさらに川の中ほどまで進んだが、思った以上に流れが速くてなかなか先に進めない。老人の「早うせんか」と急かす声につられて、せいやせいやと懸命に足を運ぶが、亀の歩み寄りも鈍い動きしかできなかった。
「ま、ままま、待て待て待て! そこを動くな! いや、それより爺ぃ。俺が渡れるように手伝ったらどうだ!」
 ヒィヒィ言いながら首まで水に浸かった男が叫べば、ひゅぅんと鋭くしなる音がする。その風切り音が男の耳元をかすめると、その巨体がヒョイと空中に浮き上がった。
「ひゃぁ! なにしやがる。やい、降ろしやがれ!」
 ジタバタと足掻く男に老人が「降りたいのか?」と声をかける。降ろせ、降ろせと喚く男の態度に、老人はやれやれと首を振り、軽くトトンと右足の先でと地面を蹴った。
 途端に、プツリと糸が切れたように、宙づりになっていた男が真っ逆さまに川中に落ちていく。
 ザンブリと華々しい水音が響き、男は悲鳴とともにアッという間に下流へと流されていった。水の果て、飛沫の狭間に大男の身体が消える。瞬く間の出来事だった。
 老人は首を左右に揺らして大儀そうに背伸びをする。そして「ありゃぁ、ここに辿り着くまでに何年かかるかのぅ?」と退屈そうにあくびをして土手の草むらの上に腰を降ろした。
 手許にたぐり寄せた釣り糸をヒラヒラと揺らし、対岸から竹竿を引っ張り寄せると、老人は手中に収まった竿を器用に振り上げて釣りを始めた。
 どこからともなく水鳥が水面の上を滑空して小魚をかすめ取っていき、風は昼下がりの物静かな時間にゆったりと流れる。
 空中で釣り糸を踊らせながら老人は立て続けに大あくびを二つすると、空を見上げて「今日も良い天気じゃ」と呟いた。

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