黒竜街道物語
第二話:階段
 天井からつり下がっている物を見上げ、学者は首を傾げた。そして指を持ち上げると、その物体の輪郭をなぞるように数を数える。
「一段、二段、三段……うむむ。ざっと十段くらいか?」
「そんなとこで何やってんの、先生?」
 背後からかかった幼い声に学者は首をねじ曲げた。視線の向こう側にそばかすを頬に散らした貧弱な少年の姿ある。
「おぉ、カント・ガント。ちょうどいいところへ。これはいったいなんだろうかね?」
 学者は片手で天井を指さし、もう片方の手で口髭を弄びながら、指し示した物体と子どもとを交互に見つめた。
「ん〜? あぁ、階段だね」
「そう、階段だ。しかしどうやって使うんだろう? 階段の両端のどちらも空中にあるんだよ。宙づりの階段など役立たずではないかねぇ」
「さあね。おいらはどうやって使うのか知らないよ」
 カント・ガントはヒョイと肩をすくめた後、勢いで肩から滑り落ちそうになった布鞄の紐をたぐり上げる。
 二人の頭上には上と下が切れた階段が綱と金具で固定されて宙づりになっていた。その姿は半端な形で取り残されたブランコに似ている。
「どうも判らんね。こんな妙な階段は今まで見たことがない。理屈に合わないじゃないかね」
「ここに置いた奴には意味があるんだろ。学者先生は暇人だねぇ。おいらがそんなこと考えていたらアッという間に爺になっちまうよ」
「うぅ〜む。判らん。なぜ階段をこんなふうに……」
 ウンウン唸る学者を残して、カント・ガントはサッサとその場から居なくなってしまった。


 それから学者は毎日のように宙づり階段を眺めにやってきた。口髭を指先で弄び、う〜むと一言唸っては首を傾げ、また口髭を弄ぶの繰り返し。何をするでもなく階段を見上げていた。
 表の黒竜街道から路地裏に一本入った細い通りの上でボヤッとして佇んでいる学者を、その通り界隈の者たちが何人も見かけている。
 初めこそくる日もくる日もやってくる学者の姿を物珍しそうに眺めていた近所の連中も、いいかげんに飽きてしまいすっかり気にも留めなくなっていた。女たちは新しい話題に飛びついていたし、男たちは博打に忙しいのだ。
 そんなある日、いつものように学者がやってきた。宙づり階段の下に立つと、う〜むう〜むと唸り続ける。
「もし、そこの人。いったいどうなさいました?」
 学者が振り返ってみれば、魅惑的な水晶色の瞳をした若者がスラリと佇んでいた。陶磁器の滑らかな肌を持ち、瞳に負けぬ艶やかな黒髪を肩先で切り揃えた容姿は社交界の花たちの間を蜂のごとく飛び交う貴公子のようだ。
 しかし、学者はそんなことにはまったく頓着しない質らしく、何日も前にカント・ガントに話したように階段を指さして「こんな階段は見たことがない」と繰り返す。
「ふむ。なるほどなるほど。おっしゃるように何の役にも立っていないように見えますね。しかし、あなたは毎日これを観察していると仰るが、それなら夜の間もご覧になったことがおありで?」
 若者の問いかけに学者がハタと動きを止めた。
 彼は毎日毎日やってきていたが、いつも決まった時間に来て決まった時間に帰っていく。夜に階段を観察するなんて思いつきもしなかった。
「そうか! 時間をずらしてみたら何か判るかもしれない! いや、ありがとう、ありがとう。君のお陰で謎が解けるかもしれないよ!」
 クルアンと名乗った若者と強引に握手を交わすと、学者は踊るような足取りで通りの向こうに走っていく。夜の観察に備えて支度をしようというのだろう。
 学者の背中を見送るクルアンがクスリと喉の奥で笑った。笑う彼の瞳が猫眼のように細められたのを見た者は誰もいない。


 夜になると黒光りする黒竜街道沿いに、学者がいそいそとした足取りでやってきた。
 彼は骨董屋で見つけた古いランプに灯をともして頭上にかざす。階段は昼間と同じように変わらぬ姿で宙づりになっていた。これといって変わった様子はどこにもない。
 秋風が吹き抜ける夜の通りは人っ子一人いなかった。周りの家々にはほんわりとした明かりが灯っているが、階段のある場所は壁が落ちた屋根だけのあばら屋で、いかにも物寂しい風情が漂っていた。
 学者も昼間と同じように唸り続けながら階段を見上げる。時間が変わっただけでやっていることは同じだ。
 夜もとっぷりと更けて今夜の月も天中を過ぎた頃、学者の足下に一匹の黒い猫がすり寄ってきた。透明な水晶玉のような眼の猫で、素晴らしく美しい毛並みをしている。
「やぁ、猫くん。こんばんは。君もこの階段を見物にきたのかね?」
 学者は相変わらず口髭を弄びながら猫に語りかけた。
 神妙な様子で学者の声に耳を傾けていた猫が、優雅に尻尾を振りながら立ち上がる。ゆらゆらと揺れる尻尾で地面をピタリと叩くと、黒猫は後ろ脚で立ち上がってニッカリと人間のように笑った。
 人と同じように二本脚で立ち上がった猫が、ピョコピョコと階段のすぐそばまで歩み寄る。破れた屋根から月明かりが差し込み、その光の輪の中に入ると、猫は月に向かって一声鳴いた。
 学者が見守る前で月の光がひゅるりと地面を離れ、階段の上の端へと光の手を伸ばす。
 その手がピッタリと階段に繋がれると、猫は今度は前脚を使って地面を引っ掻き始めた。途端に掘り起こした地面からサラサラと風が吹き起こり、猫の髭を撫でながら階段の下の端に辿り着く。
 初めて目にした不思議な光景に学者はワクワクして階段に駆け寄り、風と月光で編み上げられた階段の上下をしげしげと観察した。
「猫くん、すごいぞ。こんな素敵な階段は初めてだ。おぉ! 上へも下へもいけるのかね。うむ、これは是非とも体験してみなければなるまい」
 学者は喜々として階段に足をかけると、古ぼけた階段の上に立って上へ伸びる光の階段と下へ伸びる風の階段を交互に見比べる。そしてしばしの間、口髭を弄びながら首を傾げて考え込んだ後、意気揚々と上の光の階段を昇り始めた。
「ほっほぅ! これは見事だ! 下の黒竜街道が天と地の間に消えていくぞ!」
 楽しげに叫ぶ学者の声に、不思議な階段の下で猫が耳を傾ける。得意げに髭を震わせる猫の眼は、天に輝く月のようにピカピカ光っていた。
「このまま月まで行けそうだよ、猫くん。私はちょっと月面見物に行くことにしよう。さようなら。また月夜の晩に逢おうじゃないか」
 光の階段の上のほうから学者の声が響いてくる。
「いやはや。いい月夜だ! 本当にいい月だよ」
 家々の屋根に降り注ぐ声につられて、猫も天空の月を見上げた。水晶の瞳に映った月がさも楽しげに瞬く。
 その様子を見上げる猫の眼が三日月そっくりに細められた。


 翌日、カント・ガントが久しぶりに黒竜街道から一本裏路地に入った通りを通りかかると、宙づり階段の綱を切って階段を降ろしている若者に出逢った。
「おや、クルアン。その階段どうするんだい?」
「やぁ、カント・ガント。いらなくなったから捨てるのさ。今までは吊っていたけど、今度ここに洒落たガレージを建てようと思ってね」
「なんだ。じゃ、階段は別に使ってなかったのか」
 カント・ガントの言葉にクルアンは謎めいた微笑みを口元に浮かべる。一重瞼の若者の瞳が猫眼のようにキラリと光った。
「学者先生が聞いたらガッカリするだろうなぁ。その階段のこと、ずぅっと気にしていたって噂だよ」
 ふぅん、と鼻を鳴らすクルアンの口元がいっそうニヤニヤと歪む。
「なんだい思い出し笑いなんかして。気味が悪いよ」
「案外、学者先生は先生なりの答えを見つけたかもしれないよ?」
 降ろした階段を担ぐクルアンがカント・ガントにウィンクする。雌猫を挑発する雄猫のような態度に少年がもったいぶった様子で胸を反らし、意味深に片眉を持ち上げた。
「真理はいつだって背中側についているものさ」
 クルアンが頬にかかった黒髪をサラリと払いのける。彼の魅惑的な水晶の瞳が細められると、カント・ガントはどうでもよさそうに肩をすくめた。

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