黒竜街道物語
第一話:クレヨン
 酒場“宵星亭”のドアは古ぼけている。体当たりをしたら木っ端微塵に吹っ飛びそうなちゃちなドアだ。
 ところが店内でろくでなしどもが暴れても、このドアが粉みじんに壊れたという話を聞いたことがない。誰も彼もが明日にはこのドアは綺麗さっぱりなくなっているだろうと囁くが、只の一度も壊れたことがなかった。
 カラランとベルが鳴った。
 店のドアに申し訳程度についているベルが、なぜか楽しげに揺れることに気づく客はいない。
 ベルの音を聞きつけて、店の奥で煙草をふかしていた亭主は億劫そうに顔を上げた。カウンターの向こうに人影はない。それもそうだろう。今日はまだ店を開けていないのだ。
 風が訪ねてきたか、と亭主は退屈そうに煙草の煙で盛大に潮を噴く。
「マスター。おいらのいつもの席は空いてるかい?」
 カウンターの下から聞こえた声に、亭主は飛び上がった。
「カント・ガント。今日は遅かったじゃないか」
 亭主は濁声を高くし、ニマニマと顔を崩す。
 カウンターの向こう側を見下ろせば、小さな影がちんまりと立っていた。この古ぼけた酒場に似合いの貧相な格好をした子どもだ。
「ちょっとヤボ用があったのさ。で? おいらの椅子は?」
「おぉ、それね。なんだな。ちょっとばかりその……まぁ、あまり気にしないことだ」
 亭主の歯切れの悪い対応に、子どもカント・ガントはピクリと眉をつり上げる。肩から袈裟懸けに下げた布鞄を神経質そうに撫でさすり、狡賢い目で亭主の鳶色の瞳を見上げると、少年はニタリと口元を歪めた。
「さては、やったね?」とチシャ猫のように子どもが笑えば、亭主が「お察しの通りで、お客様」と慇懃な仕草で腰を折り苦笑いを浮かべる。少年は亭主の様子にそばかすだらけの顔を厭そうに歪めた。
「しょうがねぇなぁ。まぁ、今回は勘弁しておいてやるよ。でも弁償してもらわなきゃあね」
 亭主が肩をすくめると、少年はなんでもないといった態度で店の奥まった机へと近づいていく。そこには古いぐらつくテーブルが鎮座し、脚がベッキリと折れた背高の椅子が転がっていた。
 カント・ガントは無惨に折られた椅子をまじまじと観察し、小さくため息をついた。そしておもむろに鞄から小さな平ぺったい小箱と染みだらけの画用紙を取り出すと、床に広げた紙の上で小箱の蓋を開けた。
 箱の中には色とりどりのクレヨンが並んでいた。血色の赤、夏空の青、若芽の緑、夕日のオレンジ、たんぽぽの黄色。小さな箱いっぱいに詰まているチビけたクレヨンの中から、少年は雪の白色をしたクレヨンを汚い指でつまみだした。
「おまえ、ちょっとどいていてくれよ」と白いクレヨンに声をかけると、カント・ガントは小箱の中のクレヨンを画用紙の上にぶちまける。
「さぁ、働け。仕事の時間だ。怠けるなよ、お前たち。おいらはちゃんと見ているぞ」
 少年が甲高い声で命じると、てんでばらばらに転がっていたクレヨンたちがピョンと跳ね上がって一斉に立ち上がった。わいわいがやがや、やれ身体が痛いだの息苦しかっただの、思い思いに不満をもらしながら押し合いへし合い。
「働けぇっ!」キィキィと少年が怒鳴ると、クレヨンたちはピョンピョンと跳ねまわって画用紙の上を駆けずり回った。
 やい、オレの場所を取るんじゃない。
 いやいや、ここはわたしの分担だ。
 何を文句があるなら表へ出ろ。
 おうさ、望むところだ。その胴をへし折ってやる。
 葡萄茶《えびちゃ》と黄土色がケンケンガクガクと罵り合いを始め、その周囲を石竹とオリーブが踊り狂って笑い転げる。
「おぉい、カント・ガント。今日はシェリー酒が足りないんだがな」
 カウンターの奥で宵星亭の亭主が腰を叩きながら大儀そうに立ち上がった。
「誰だい、酒樽ごと飲み干したオオバカは。おいらを当てにするのはよしとくれ」
「まぁまぁ、そう言わずに」と揉み手をする亭主の現金な態度に、少年は「お代は高いぜ?」と鼻をすすり上げながら口を尖らす。亭主がニッカリと口元を歪めて右手の親指と人差し指で円を作った。
「あ〜……琥珀と雪、お前たちちょっと行って来い」
 カント・ガントの呼びかけに、先ほどつまみ出された雪色のクレヨンが優雅に頭を下げ、画用紙の縁でノロノロしている淡い黄色のクレヨンをペシリと叩いて引きずっていく。
 カウンターの向こうに姿を消したクレヨンを見送り終わると、少年は足下で転げ回るクレヨンたちをジットリと見下ろした。
「お前たち、そんなにお払い箱になりたいのか?」
 パタパタと足先を上下させるカント・ガントの様子に、クレヨンたちが畏まった様子で整列する。が、並んだ先から、やれ誰それが押しただの叩いただの、ピィピィギャアギャアと大騒ぎの大混乱。
「えぇい、整列ったら整列だ! 一分一秒だって待てないぞ!」
 怒鳴り散らしたカント・ガントの真っ赤な顔にもクレヨンたちはゲラゲラと笑い転げてバラバラバラ……。
 ようやく全員が整列し終わり、オモチャの兵隊よろしく敬礼したときには、画用紙の上にはクレヨンたちの足跡がベタベタと残されていた。
 カント・ガントが各自で点呼だと叫ぶと、またまた大騒乱の中でクレヨンたちは一本ずつ飛び上がっては自分の色を叫ぶ。しかも長々と演説をぶっているものまでいる始末。
 え〜。わたくし、生まれは某山脈の奥にあります水銀鉱脈でございまして、オーク鬼どもの炉釜に燻されること千年、真っ赤っかに焼けた身体を取り出され、砕かれ、冷やされて精錬工場に移されまして……。
 丹色が押し倒した紫苑の上に飛び上がって声も高々に叫べば、周囲のクレヨンたちは大ブーイング。
「えい、うるさい。黙れ黙れ。おいらの声が聞こえないか」
 小箱を手にしたカント・ガントが声を枯らして怒鳴り散らし、やっとの思いでクレヨンたちを鎮める頃、少年の足下におずおずと琥珀が戻ってきた。息も絶え絶えの雪を背負っているところを見ると、亭主のほうの仕事は終わったらしい。
 むぅっとカント・ガントは頬を膨らまし、カウンターの奥を睨んだ。が、亭主は素知らぬ顔で店のドアから身体を乗り出している。
 カコカコと木切れが漆喰壁に当たる音が聞こえた後、煙草のやりすぎで潰れた亭主の声が店前の通りに響きわたった。
「へい、おまちどおさま。宵星亭、ただいま開店! 街道をお越しのお客様、どなた様もおいでくださいませ。本日のおすすめはシェリー酒。遠い海を渡ってきた甘露の琥珀はいかがです? 今宵の喉ごしは格別でございますよ」
 カント・ガントは眉間に寄せた皺をいっそう深く刻むと、よろけている雪色を乱暴に小箱に放り込み、続いて琥珀色をした薄黄色のクレヨンも一緒に突っ込む。
 それを見ていた他のクレヨンたちが我も我もと小箱の中に走り込み、大喧噪が収まってみれば、何ごともなかったようにクレヨンの箱は少年の手の中に収まっていた。
「やぁれやれ。今日の仕事も一段と面倒だったぞ」
 カント・ガントは首を振って画用紙を取りあげた。
 店のドアがカラランと鳴る。亭主の濁声が客を迎え入れ、よぅよぅと声を掛け合う酔客たちが店の中を歩き回る。
 少年は古ぼけたテーブルの上に画用紙を放り出すと、傍らに転がっていた椅子を起こして、背高のっぽの椅子によじ登った。
「へい、いらっしゃい。今日のおすすめはシェリー酒ですよ」
 彼の前に広がる紙の上、クレヨンの足跡。そこにあるは、どこかで見た椅子のらくがき。
 亭主の声を聞きながら、カント・ガントは満足そうにらくがきを見つめ、肩から下げた鞄にくるくると丸めて突っ込んだ。
 酒場“宵星亭”のドアは古ぼけている。体当たりをしたら木っ端微塵に吹っ飛びそうなちゃちなドアだ。
 そのドアをよくよく観察すると片隅にこんな落書きを見つけることができる。
 ──制作者カント・ガント。壊した者は必ず弁済すること。例外はなし。

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